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あなたへ ①


――
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。
――

――
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
――


どこかですでに書いた文章と重複するが、

この世の詐欺師たる者どもの決まり文句とは、ただの一人の例外もなく、「自己責任」というものである。

要するに、詐欺を働いた自分たちではなく、その詐欺を信じた人間の方が悪い――という意味である。

すなわち、たったひと言「自己責任」とうそぶいてしまえば、詐欺話を持ちかけた自分たちの罪悪の責任については、ことごとく免罪されるものであると、そのように主張しているわけである。

私自身、そんな詐欺被害に実際に遭って、いま苦しんでいる人のためになにができるという訳もないのだが、

「ああ、信じた私がバカだったのだ……」

というふうに肩を落とし、頭を落とし、そのようにしてただただあきらめて、泣き寝入りに伏す道だけは、けっして選択しないようにと、僭越ながらここに進言しておきたい。


というのも私自身、これまでなんどとなく、事の大小を問わず数多の詐欺に遭い、そのたびごとにすべての痛みも苦しみも、「自己責任」というひと言を持って片付けられて来たからである。

私のここで言う詐欺とは、金銭をだまし取られるような類のそれに限らず、むしろ、自分の命そのものを盗まれたり、生き血を啜り取られたり、人生それ自体を搾取されるような、まったき「悪」について言っているのである。

たとえば、

私は幼き頃より、親の言うことによく聞き従う、従順な子どもであった。が、同じ親はいつでも私に向かって「他人(親)のせいにしてはいけない」というふうにくり返して来た。そのようにして、子たる私が涙ながらになにを訴え、どんなに心を注ぎ出した時にあっても、その一つとしてをもけっしてまともに取り上げることも、向き合うこともなく、ただひすらに、ことごとく自分たちの前から退けて来たのだった。

で、このような構図とは、家庭という私が否応なく属するしかなかった組織においてばかりか、国内外を問わず、学校でも会社でも市町村でも、どこにおいてでも、おおよそ同様であった。

その大変に良い一例としても、此度の疫病蔓延による緊急事態にあって、お腹が痛いと泣いて逃げた懦夫の代わりに、政の最高責任者の座に就いた生粋のうつけ者の、いみじくも宣ってくれたひと言とてまた、「自助」ではなかったか。

「自助」とは、正しく翻訳すると「人のせいにしてはいけないし、人に頼ろうとしてもいけない」という意味である。もっと細かく、鮮やかに、つまびらかに言い直すと、疫病が蔓延したがために、病にかかったり、職を失ったり、生活が困窮したりするのは、すべてなべておしなべて、「自己責任」であるので、自分の身は自分で守り、自分のケツは自分で拭い、自分の命はただ自力によって生かせ――それに悖るのならば、ただ死ね、勝手に死ね、できる限り周りに迷惑をかけない方法において死ね――という意味である。

親のせいにするなら家を出て行け、学校のせいするならもう来るな、会社のせいにするなら今すぐ辞めろ、社会の政治の国の責任を問うならただひたすらに死ね――

なぜとならば、そう、いっさいは自己責任であるのだから…!


それゆえに、

それゆえに、私は言っているのである――泣き寝入りだけは。ぜったいにするな、と。

たとえいつもいつも孤独で、孤立無援で、四面楚歌の身の上であったとしても、この地上世界の法によってはけっして裁けないし、救われることもない――それがゆえにただあきらめて死ぬしかない――ような「罪悪」や「不幸」やの、そのひとつひとつについて声を閉ざすことなく、むしろ声高に被害を叫びあげ、裁きを訴え続け、公正と正義の実行を願い求め続けるべきなのである。

少なくとも、私はずっとそのようにして来た。

それがためにすべてを奪われて、血反吐を吐きくだした夜にあっても、愛する人を失って、血の涙を垂れ流した朝にあっても、

ほかの誰でもない、唯一まことの生ける神であり、裁きと復讐の神であるところの、わたしの神イエス・キリストと父なる神にむかってこそ、祈り、祈り、祈り続けてきた。

書き、書き、書き、書き連ねてきた。

なぜとならば、

私ははっきりと、この身をもって「知る」ものである――わたしの神キリスト・イエスと父なる神とは、愛と赦しの神であると同時に、裁きと復讐の神であることを。

それゆえに、

それがゆえに、私はさらに知る者である。

冒頭の、

「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」

とは、

それが語られた当時のアブラハムなる一人の人物以上に、そのアブラハムの子孫であるところのキリストに向かってこそ、はっきりとはっきりと語られた神の言葉である、と。

もう一度言うが、

「あなたを祝福する人をわたしは祝福する」でも、「あなたを呪う者をわたしは呪う」でも、

それはアブラハム以上に、アブラハムの子孫である「イエス・キリスト」にこそ向かって語られた、神の言葉である。

だからここで、この文章のひとつの主眼についても述べておくが、もしも、私のこの言葉にほんのわずかでも反駁する者があれば、その者の誰であれ、わたしの神イエス・キリストと父なる神によって、「約束通り」に、呪われよ。

アブラハムの子孫とはイエス・キリストのことである――このひとつの絶対不変の真理をば、自分の身をもって知らず、自分の人生をもって表現できない人間とは、次に続く言葉「キリストのもの」ではけっしてありえないのだから。

すなわち、キリストのものでない者とは、すべてなべておしなべて、ただの一人の例外もなく、「とこしへに呪われる滅びの子」でしかないのだから。


それゆえに、

冒頭の「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり…」とは、

まさにまさしく真正の、真性の、真実の、事実の、現実の「キリストのもの」であるところの、たとえばこの私のような者にむけて語り掛けられた、神の言葉でもあるのである。

それがゆえに、

「あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う」

という神の約束も、この私は真性として、真実として、事実として、現実として相続している。

だからこそ、

だからこそのくり返しとなるのだが、

いかなる「詐欺」についても、私はけっして泣き寝入りしないし、してはいけない――

ありうる限りの「悪」についても、ぜったいにそれがために犬のように死んだりしないし、死んではいけない――

なぜとならば、

もしもあなたにも、この私のように「信仰」があるのならば、

あなたはとりもなおさず「キリストのもの」であり、「神の約束の相続人」であるからだ…!


私はなんどでも、なんどでも、この世の誰を前にしても、天の万軍を前にしても、その万軍の主を前にしても、

いささかも恐れることも、おじけづくことも、気圧されることもなく、はっきりとはっきりとはっきりと、断言、確言、切言してみせよう――

すなわち、

この私は、あなたのように、イエス・キリストのものであり、神の約束の相続人であり、その唯一無二の証として、信仰を、イエス・キリストの霊を、父なる神の霊を、イエス・キリストの名によって遣われた方の霊を、己の中の、不可視の神殿に宿している者である、と。

そのような不可視の神殿を、幕屋を、神の家を、教会を心に持っているあなたは、この私のような人間だけが、「キリストのもの」であり、「信仰によって生きる者」であり、「神の約束の相続人」である、と。

反対に、不可視の神殿も、幕屋も、神の家も、教会も心に持たない、持たないがゆえにこそ、例えば「自己責任だ」とか、「自助だ」とかのたまって恥を知らない人間どもとは、ただの一人の例外もなく、各時代の可視の神殿や幕屋や神の家や教会やによって、支配され、

また、絶対に消せないような「恐れ」によって、その心をこそ支配され、牛耳られ、隷従させられて来た「奴隷」であり、「悪霊に憑りつかれた者」であるものと。

それゆえに、かつて彼らのような者どものために嘆き苦しみ、そして、今なおそのようにして呻き悶えているすべての人々のために、

いや、ほかならぬ「あなた」のためにこそ、

私はここにはっきりとはっきりとはっきりと、信仰によって、”霊”によって、イエス・キリスト自身の言葉によって、言うものである。


「泣くな、伏すな、あきらめるな、むしろ、ただひたぶるに喜べ、祝え、立ち上がれ」――と。


もしも、このような私の文章のいっさいが間違いであり、マトハズレであり、それがゆえに完全無欠の罪であるというのならば、神は生きている、どうか神が幾重にも私を罰してくださるように――

今も昔も永遠に、神は生きているがそれゆえに、たった今のこの瞬間にでも、神自身が御手をくだして、私の命を取り去ってくださるように。



つづく・・・



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