アブラハムの子孫とは、キリストのことである ④
だから私は、こう言おうと思う。
キリストはわたしたちの罪のせいで殺された――という「現実」を、「自分の人生をもって知っている者」だけが、「キリストのもの」であり、アブラハムの子孫であり、約束の相続人である、と。
なぜならば、
たとえ罪のためにであれ、罪のせいでであれ、キリストは死んで、葬られた、
しかし、キリストが死んだのは、死んでしまえばそれで終わりであり、後には何も残らない――そんな空っぽな物語を紡ぎ、残し、伝えるためではなかった、
キリストは死んで、葬られたが、三日目に復活した――
これこそがイエスの物語であり、キリストの「福音」だからである。
これこそが、「せいで」という「現実」に打ち勝つ、たしかな「力」を持った、「福音」だからである。
私自身、こんな文章を、これまでくどくどと書き連ねてきたのは、この「復活の福音」にこそ、「現実的にあずかりたい」と、いつもいつでもいつまでも、願い求めているからにほかならないからである。
私の言いたいこととは、こうである。
『安全な聖書』という文章の中でも書いたことであるが、
「聖書」の中に書かれている物語とは、ファンタジーではない。
それは、現実以上の「真実」であり、目に見えるもの以上の「見えるもの」であり、史実以上の「出来事」なのだ。
それゆえに、
四十年の荒野の旅にせよ、何百年という捕囚の苦しみにせよ、
それらは、まさにまさしく、いま現実に、私の身の上に起こっていることであり、
実際に過去に起こったことであり、
さらには、これから間違いなく起こるべき「出来事」なのである。
聖書の中に描かれた登場人物たちは、すべて、なべて、おしなべて、紛れもない現実世界における、自分自身であり、
そして、聖書の主人公たる「イエス・キリスト」は、嘘でも、偽りでも、作り物でもなく、本当にこの世界に存在し、今まさに、自分の人生に直接かかわり、自分という存在を翻弄しているのである。
それゆえに、
イエスが憲兵たちに引き渡されて、連れて行かれた時、
鶏が鳴く前に、三度、「イエスのことなんか知らない」と言い張って、イエスを裏切ったのは、私である。
たとえ認めたくなくとも、
イエスを侮辱し、罵り、その身に暴力を加え、裁判にかけて、十字架にはりつけにしたのも、私である。
しかし同時に、
その十字架上で死にゆくイエスの姿を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したのも私であれば、
遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、岩の穴に葬ったのも私である。
だからこそ、
だからこそ、
週の初めの日の朝まだき、空になった墓穴を覗いて、ふり返った時に、そこに立っていた復活したイエスに出会ったのも私であり、
漁から帰ってみれば、岸辺に炭火が熾してあり、そのそばに座って、「朝の食事をしなさい」と促され、復活したイエスとともに食事をしたのも私なのである。
私は、ただたんに「聖書にあやかって」、こんなことを言っているのでは、けっしてない。
「いっさいはあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」という言葉は真実であり、
私は「四十年の荒野の旅」という現実を生きているし、「捕囚という恥辱の身分」にも甘んじて生きているし、「金も仕事も健康も家庭も、根こそぎ奪われてしまった」ようないわれのない苦しみの日々にも、もだえ、もがき、のたうちまわりながら、毎日毎日、やっとの思いで生きている。
そういう、自分の力ではどうにもならないような苦しみの中にあって、見せつけられるのは、世にも恐ろしき「神の裁きの顔」であり、「まるで生きるに値しないような」この世の有り様であり、「かくもとらえがたく病んだ人の(自分の)心」であり、自分のしていることが分からないと嘆くしかない「なんとも惨めな姿」である。
ユダヤ民族が躓いたように、私もまたなんどとなく躓いて来たし、それが私の「歴史」であり、今なおくり返される「現実」なのである。もとい、可視の現実以上の、「不可視の真実」なのである。
がしかし――
それゆえに、
それゆえに、
私は「信じる」のである。
「神を信じる」のである。
なぜなら、
かくも苦しい「不可視の真実」が、真実であるように、
キリストの復活もまた、真実であるからである。
私は、神が「死者の中から、イエスを復活させた」ことを、知っている。
「父なる神が復活させたイエス」を、私はもう何度も、この目をもって仰ぎ見て来た。
これからも、「復活したイエス」に、私はこの身をもってあいまみえ、この人生をもって出会い続けることを、知っている。
それが私の「生活のよりどころとしている福音」であり、
それが私の「信仰」であり、可視の現実を、不可視の真実を、「生きぬく力」だからである。
過去に可視の現実ばかりを生きていた自分と、いま、不可視の真実をも知って生きている自分と、どちらの方がより苦しいかと問われれば、「いま」の方がずっとずっとずっと苦しい。
だから、もうなんどもなんども、「不可視の真実など知らなければよかった」と血を吐いて、神を呪ってきた。
なんどもなんども、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と血の涙を流して、神を呪い、憎んできた。
それでも――
それでも、そんな「いま」の方が、かつてと突き比べてみれば、私は「幸せ」である。
幸せ、なんぞいう言葉がはたして適切かどうか知らないが、他になんと言えばいいのか分からないので、そう言っているだけである。
だから私は以前にも、「信じる」とは現実的でも、論理的でも、合理的でも、具体的でもない、頭のオカシナ行為であると、書いたのである。
それでも――
それでも私は、信じることを選ぶ。
これからも、神を信じることを、選ぼうと思う。
たとえ、「荒野」や「捕囚」やによって、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みを失っても、
たとえ「すべてを失う」ようないわれのない苦しみによって、死の宣告を受けた思いにとらわれても、
それでも――
いや、
だからこそ、
「死者の中から、憐れみによって、イエスを復活させた父なる神」を信じ、
物語は「死」で終わらないことを信じ、
新しい「復活」の物語を、私のこの身をもって始めさせてくれることを、
――そのような「キリストの恵み」だけを信じ、信じて、
最後の最後まで、「キリストのもの」であり、アブラハムの子孫であり、約束の相続人で、あり続けようと思う。
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