あてがいぶちの命
――
彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。
その卵を食べる者は死に
卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す。
くもの糸は着物にならず
その織物で身を覆うことはできない。
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バカはあてがいぶちの教育を修了すれば、それでよしとする。
バカはあてがいぶちの報酬を得ていれば、それで満ち足りる。
バカはあてがいぶちの預金年金にしがみついて、それで生き長らえようとする。
バカはあてがいぶちの憲法を押し頂いて、それを顧みることもない。
バカはあてがいぶちの法話をありがたがって、それにお布施する。
バカはあてがいぶちの罪の赦しを信じ込んで、それで安心立命する。
この世の中には、おおよそ、このようなバカしか存在しない。
少なくとも、「戦後日本」とかいう名をもって知られる、我が国の有史以来もっとも劣悪なバカが多産されたバカの時代にあっては、人の心身、および霊を生かすために必要不可欠だったはずの養分たるは、なにからなにまで、あてがいぶちのそれでしかなかった。
あてがったのは、いったい、だれであるのか――?
もしもお前がバカでないというのならば、その賢明なる脳みそと、健全なる心とをもって、ちょっと一考してみたらいい。
もしも本当にバカでないというのならば、ちょっとばかりの、あまりにほんのちょっとばかりの思考の実践によって、おのずと分かって来るというものだから。
…
がしかし、
仮に分かったところで、バカはふたたび、同じことをばくり返す。
バカはあてがいぶちの覚醒があれば、それでよしとする。
バカはあてがいぶちの議論を身に付れば、それで満足する。
バカはあてがいぶちの革命に参画して、それを顧みようともしない。
バカはあてがいぶちの宿命を夢見て、それに生きたりする。
バカはあてがいぶちの救済を信じて、それで死んだりする。
この世とは、アルファからオメガまで、あてがいぶちのそれで満ち満ちているのである。
さながら蜘蛛の巣のあまねく張りめぐらされたがごとく、この世にあっては、この世から彼の世、約束から永遠、創造主からメシアに至るまで、あてがいぶちの偶像があらかじめ用意されてしまっている。
用意したのは、いったいだれなのか――?
バカのバカたるゆえん、それが、あてがいぶちである。
バカは食う飯、飲む酒、着る服にはじまって、信ずる神にいたるまで、すべてなべておしなべて、あてがいぶちのそれである。
それゆえに、
それが良い、それでも良いというならば、大いにそれと寝たらよろしい。
これまであてがいぶちの人生をばあてがわれて来たように、これからもありふれた運命論、噂で聞いた宿命論、手垢でべとべとの祈りからすでに死に去った人間の信じた神の名まで、ただひたぶるに、あてがわれ続けるモノにこそしゃぶりつき、そのモノとこそまぐわうがいい。
ただしもしも、
もしもお前がほんとうに、ほんとうにバカでないというのならば、自分で選び、自分で決めろ――自分で食べて、自分で味わえ。
もしもお前の人生それ自体があてがいぶちの命でないというのならば、お前の神をば追い求め、お前のキリストをば探し求めろ。
お前のこの世をば見出して、お前の彼の世のためにこそ働け。
お前の神の名前をば知り、お前の名を知る神、ただその神からのみ知られろ。
あてがいぶちではない神と寝て、あてがいぶちではないキリストの子をば成せ。
それが、それこそが、
バカではないお前のためのあてがいぶちでないこの世であり、またそして、けっしてバカではないお前のためのあてがいぶちでない彼の世なのだから…!
耳ある者は聞け。
耳があっても聞こえない者と、目があっても見えない者とは、ただひたぶるに、去って行け――あてがいぶちの神のところへ、去って行け。
それが、すべてのバカの行き着く先だからである。永遠にさようなら…!
――
弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
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