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ユダの神の人とベテルの老預言者 ②


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老預言者は自分の墓にそのなきがらを納め、「なんと不幸なことよ、わが兄弟」と言って彼を弔った。 埋葬の後、老預言者は息子たちに言った。「わたしが死んだら、神の人を葬った墓にわたしを葬り、あの人の骨のそばにわたしの骨を納めてくれ。 あの人が、主の言葉に従ってベテルにある祭壇とサマリアの町々にあるすべての聖なる高台の神殿に向かって呼びかけた言葉は、必ず成就するからだ。
――


「神の人を殺す」という本懐を遂げた老預言者の挿話は、上のような言葉をもって締めくくられている。

すなわち、神の人を欺いた老預言者は、ユダから来たその人のなきがらを抱えてろばの背に乗せ、自分の町に持ち帰り、彼を弔い、葬った。

それから、上のとおりに息子たちに遺言を残し、自分が死んだ暁には、自分の骨を神の人の骨のそばに納めてくれるように求め、さらには、神の人の語ったすべての言葉は「必ず成就する」とまで言い残したのだった。

それゆえに、

くり返して言うものだが、このような挿話とは、ただただ書かれた言葉の通りに読んだだけではどこまでいっても奇妙であり、とうていすんなりとは理解しがたいものである。よって、読み終えた者の胸に暗雲のようなものをもたらしめたまま、いっこうに晴らしてくれることなく残り続けるのである。

が、これまでにももうなんどとなく言って来たように、そもそも聖書とは、それの韻文であれ散文であれ、なんであれ、書かれたその言葉の通りに読んだだけでは、まったく理解できないようにとしたためられた「おかしな書物」なのである。

だから、この挿話についても、すべてはあえてであり、わざとであり、はなはだ意図的にそうなっている。

したがって、私の中に住む”霊”によってはっきりとはっきりと言っておくが、同じ”霊”によって読まなかったならば、幾千年に及ぶ研究分析を続けてみせようが、そんな研究分析がもたらしたような教会で終生礼拝を続けてみせようが、しょせん人の努力や浅知恵をもってしては永久に理解することも、悟ることもできはしないのである。

まるでまるで「落とすため」の入試試験のように、「その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」書かれた書物、それがとりもなおさず、聖書だからである。


だから私は、かつて『安全な聖書』という文章なんかでも言ったことがあるのである、

このような意図をもって書かれた「危険な聖書」なんぞを、誰に対しても薦めようとは思わないと。

さりながら、

わたしの神イエス・キリストの憐れみによって、よりいっそうはっきりと言うものであるが、

たかだが文字の一群にすぎない書物としての聖書が、そのような目的を持って書かれたものだとするならば、

私がこれまでもなんどとなく喉を嗄らして言い続けている「人生という聖書」とは、いったいどれだけその本質において「危険」であり、「安全」とは遠くかけ離れたものであろうか…!

「信仰」によらずに聖書を読み込む者たちの行き着く先が、「聖霊を冒涜する罪」でしかないように、

”霊”によらずに人生という聖書をいかに長く、しぶとく、健やかに生き長らえてみせようとも、その本質、理由、意味についてきちんと見究めることも、正しくつかみ取ることもできぬまま、ただ漫然と過ぎ去っていってしまうのがオチなのである。

であるからして、

「貧しくても利口な少年の方が、老いて愚かになり忠告を入れなくなった王よりも良い」

という冒頭に引用したコヘレトの言葉とは、まことにまことにそんな人生の本質を捉え、言い当てている。

すなわち、若きソロモンとは神の御心に適った立派な少年であったが、老いさらばえたソロモンとは、神の怒りを買ったれっきとした愚主であった――

そうして、まさにまさしく、一見不可解な「神の人を殺した老預言者の挿話」を読み解く鍵もまた、ここにこそ隠されていたのである。


いったいどういう意味だろうか――。

私はこの文章を書き始めるに当たって、ソロモン王の堕落と失敗の歴史から語り始め、その後のヤロブアムに至ってなお、有能であってもしょせんは愚かな臆病者にすぎなかったことを綴った。

それらはすべて伏線であって、ただたんに、神の人を殺した老預言者の物語の、時代背景を説明したかったわけではない。

だからここまで言ってしまえば、そんな伏線の回収ぐらい、ちょっと勘の良い人になら簡単にできてしまいそうなものである。

がしかし、

「なのであとはどうぞご勝手に」と、たとえ私が筆を置きたかったとしても、

「よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな」というふうに、最後の最後まで語りきるようにと、わたしの神イエス・キリストから言いつけられているので、その言葉の通りに終いまで書き進めることとしよう。


ソロモンの堕落と、ヤロブアムの背信――すなわち、異教の神々のために祭壇を築いたり、偶像に香をたいたりすること――

そんな聖書的に言うならば「みだらな」時代の、「みだらな」町の片隅にあって、一人の名もなき神の人が、もう一人のやはり名もなき老預言者によって欺かれ、殺された――

この摩訶不思議な歴史上の挿話とは、まずもって、ユダとイスラエルの国の興亡について、読者へ向かって雄弁に物語ってみせているのである。

つまりは、こういうことである、

堕落したソロモンの子レハブアムに対する恐れに憑りつかれたがために、偶像に香をたきつづける道を選んだ愚かなヤロブアムに対して、しっかりと神の言葉を語り告げ、同じ神の言葉に聞き従って「たとえ王宮の半分をくださっても、一緒には行かない」と言い切って、ベテルから離れ去ったところまでは、ユダから来た「神の人」とは、さながら若きソロモンのような「貧しくとも利口な少年」であった。

けれども、

その帰り道の途中で、老獪な預言者にたばかられたがために、「パンと水の誘惑」に惑わされて、「そこのパンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻るな」という神の戒めを破ってしまったその姿は、主なる神から二度も直接の訓戒を受けても、若い異国の妻たちによって迷わされたがためにその忠告に聞き従おうとしなかった、「老いて愚かになったソロモン」そのものであったのである。

であるからして、

ソロモンの死後にあって国が二つに分裂し、それぞれの上にバカな二人の王が君臨していたその時代に起こった、神の人の殺害の挿話とは、

いみじくも、生粋の偽預言者たるベテルの老預言者が語ったとおりの、「主の言葉は必ず成就する」というユダとイスラエルの民への警告であったのだ。

すなわち、

古くは、モーセの律法に記された「呪い」の言葉から、

後になって、ソロモンにも直々に語られた「あなたたちとその子孫がわたしに背を向けて離れ去り、わたしが授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、 わたしは与えた土地からイスラエルを断ち、わたしの名のために聖別した神殿もわたしの前から捨て去る。こうしてイスラエルは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる」という戒めの預言まで、

神の語った言葉は、すべて、必ず成就する。

すべて、必ず成就するから、ソロモンの死後、次々と王が立てられていった――良き王にせよ悪しき王にせよ――はいいものの、

また、エリヤでもエリシャでもイザヤでもアモスでもホセアでも、多くの預言者たちがくり返しくり返し、神の言葉を告げ知らせ、改心を促したにも関わらず、

もっとも肝心な民の心は、ついに「神に立ち帰る」ことがなかった。

神に立ち帰ることがなかったがそのために、あげくのはてに、ユダもイスラエルも共に滅ぼされ、女も子供も老人も殺されて、わずかに生き残った者も捕囚にせられ、敵国の彼方へと連れ去られていったのであった。

まるでまるで、

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」

というふうに、あらかじめはっきりと告げられていたにも関わらず、アダムもエバも善悪の木の実をもぎ取って食べたがために、神に呪われて、ついには死んでしまったように。

神の言葉とは、いつの時代にあっても「必ず」であり、もしも悖るのならば、そこにはいっさいの容赦がない。

だからこそ、「パンも水ももらうな、離れ去れ」という神の戒めを破ってしまった、名もなき神の人もまた、獅子に引き裂かれて殺されてしまったのであり、

そして、これももうなんどもなんども言って来たことだが、「文句なしの神の裁き」とは、このようにどこまでもあくまでも、「文句なしの裁き」なのである。


それでは、そんな文句なしの裁きを神の人の上に招いた、ベテルの老預言者についてはどうなのだろうか。

「彼はその人を欺いたのである」

という言葉の通りに、同じ老預言者とは一脈の疑いも間違いもなく偽預言者であり、さながら「決して死ぬことはない、食べれば目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と言ってエバをだました蛇のごとく、彼もまたしたたかに無垢の神の人を言葉巧みに欺いて、災いをもたらしたのである。

いったいなぜ、そんなことをしたのか――?

そのような偽預言者の上に、なにゆえに神の言葉が臨んで、「あなたは先祖の墓には入れられない」などと大声で言わしめたのか――?

はじめに言っておくが、後者の問いかけについては、別段あやしむにも、いぶかしむにも及ばない――かつて、預言者バラムが、モーセと民とをピスガやペオルの頂で呪おうと試みた時にも、主の霊は彼に臨んで、託宣を与えたことがあるくらいなのだから。

それ以上に、ここから詳しく語っていくこととするが、この現代における「老預言者」たちの体たらくを見てみても、たとえ彼らの上に主の霊が臨んで、何を語っていようとも、私は少しも驚くこともないのである。

たとえば、

この私もまた、この時代の「老預言者」たちによって、これまでに幾度となく惑わされ、たばかられて来た。

まことに残念ながら、「ガキの水遊びにも如かない教会のバプテスマ」をこの身に施された、過去の事実を取り上げてかんがみるならば、どのような言い繕いも言い逃れもできないまでに、実際に「欺かれた」のである。

それゆえに、

わたしの神イエス・キリストを復活させた父なる神の憐れみによってはっきりと言っておく、

「列王記」に書き残された、神の人を殺した老預言者の物語に込められた神の真意とは、

すべての時代の、すべての神の人に対して向けられた、憐れみ深き神からの「警告」であり、

当代に限って述べるならば、とりもなおさず、不可視の教会を自分の内に持つ私のような人間へ向けた、「戒め」なのである。

それがどのような「戒め」なのかと言えば、ほかでもない、この地上にあまねく蜘蛛の巣をはりめぐらせた、ユダヤ教キリスト教に巣食う偽預言者たちとは、けっしてけっして「関わるな」という警告であり、忠告であり、訓戒なのである。

もう一度、いやなんどでもはっきりとはっきりと喉を嗄らして叫んでおく、

そこに何百年何千年の歴史があろうとも、いや、逆にそれがゆえにこそ、当代のユダヤ教キリスト教のあらゆる宗派教義神学の下に今日も額を寄せ合う、合わせて二十億だか三十億だかの信者たちとは、一脈の疑いも間違いもなく「ベテルに住んでいた老いさらばえた預言者」であり、それ以外の何者でもありはしないのだ。



つづく・・・



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