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友よ、我が霊とともに…(戦い)


――
角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。 彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。
――


およそ、この世の可視の教会とは、コ〇ナウィルスのようなものである――

彼らの掲げた旗幟、いわば宗派だ教義だ神学だのいうものは、ことごとく「変異種」である――

ユダヤ教キリスト教の世界たるや、そんな「穢れ」の起源であり、温床であり、揺籃である――

よって、

これらの場所に棲息する者どもたるや、ただの一人の例外もなく、ウィルスのごとき、「バッタモンの信仰」のスプレッダーにほかならずして、

いかなしるしにも、救いにもなりはしないバプテスマの対価に、金と血と心とを盗み取り、私腹を肥やしつづける偽預言者たちにいたって、無効果にしてかつ毒性の〇クチンをくり返しばら撒いては、無辜の人々の生き血を啜りとりつづける悪徳科学者と、まったく変わりがない。

これら生粋の悪党たちが、いったいどうして、この地上になおも存続することを許されて、あまつさえ、豚のように肥え太り続けているのか――

神はどうして、彼らの悪の道を守り、悪人がその悪ゆえに生きながらえて、そればかりか、繁栄を謳歌することまで許しているのか――

などというふうに、誰も驚いたり、怪しんだり、不思議がったりするには及ばない。

「身分の高い者が、身分の高い者をかばい、更に身分の高い者が両者をかばうのだから」

だなどと、コヘレトの言葉なんぞに諭されるまでもない。

バカでもアホでもクソッタレでも、人の集まるところには金が集まり、金が集まるところにはビジネスが生まれる――

ただそれゆえに、である。

むしろ、それがためにである。

おおよそこの世の教会とは、金と生き血を啜り取るための「シノギ」であり、それ以外のなにものでもありはしないのだから。


それゆえに、

一連のコ〇ナ騒動を煽り立てた者たちと、この世の教会の構成員たちのやり口とは、けっしてけっして偶然ではなく、まことにまことによく似通っている。

すなわち、

「テレビジョン」という、バカを洗脳するべくこの上なく有効なツールを用いて、徹底的に無価値にして毒性の情報という劇物を垂れ流した――この一点においてこそ。

その動かぬ証拠としても、「この世界でもっとも多くの人間に福音を語った」などとされている世紀のオオタワケ者の本性とは、

ただひとえに、「類まれなテレビ屋」だったというばかりである。

だから、「もっとも多くの人に福音を語った」のではなく、「もっとも執拗にテレビを利用した」という方が、より正確に事実を言い表している。

というのも、

ひとたび、このオオタワケの語った「福音」の内容をば質してみたならば、ひっきょう、「イスラエル万歳」だなどいう、「歴史的マトハズレ」でしかなかったのだから。

――このように、ユダヤ教だの、キリスト教だの、教会だの、教義だのと、いかな美辞麗句によってけばけばしくに着飾らせてみようとも、

その下等さ、愚劣さ、醜悪さの加減においては、今も昔も永遠に、当世のコ〇ナ騒動に如くものではないのである。


それでも、

それでもなお、

「悪人がその悪のゆえに長らえる」という言葉のとおりに、

偽預言者も、偽りのユダヤ人たちも、バッタもんの信仰者らも、テレビ屋の伝道師様とその取り巻きどもも皆、彼らの悪のゆえに世にはばかりつづけ、

そのかたわらにあって、

「善人がその善のゆえに滅びることもあり」という言葉の通りに、

たとえば我が亡き友のような、私よりもはるかに善人で、はるかに賢人だった者が、まさにまさしく「善人すぎ、賢すぎた」がゆえにこそ、若くしてみまかったりする。

――しかししかし、

それがために、「神は物の道理が分からない」だなどと呻き、嘆き、むせび上げるにも、及ばない。


「神の約束は、イエス・キリストにおいて、ことごとく然りとなった」という言葉こそが真実であり、

そのようにして、偽預言者や偽りのユダヤ人たちは皆、すでに裁かれているからである。

この、「すでに裁かれている」という確信が、バッタモンではない、「神から与えられる本物の信仰」であり、私の中に息づく生ける神の”霊”である。

すなわち、

イエス・キリストを死者の中から復活させたのは、父なる神の憐れみである――まさにこのひとつ事をば自分の身をもって体験し、自分の人生において経験しつづけるという、「生活のよりどころとする福音」のことなのである。


偽預言者たちや偽りのユダヤ人たちにあって、そのようなものを見出すことは、けっしてない。

神の憐れみの完全な体現である「イエス・キリスト」も、

キリスト・イエスを死者の中から復活させた父なる神の「憐れみ」も、

たったのひとかけですら、彼らにあって見出すことなど、絶対にありはしない。

それでも彼らは、無辜の民から合法的かつ偽善的に金と生き血を啜り取ってをは、「人による人の支配」というマトリックスを構築し、同モデルを運営させるといったビジネスセンスと、政治的悪才とに長けており、

そのようにして、いつの時代においても、蛇や蝮の子らの方が、光の子らよりも、この世を上手に生きている。

それゆえに、

「善人すぎるな、賢すぎるな」という冒頭の聖書の言葉は、まことに正鵠を射ており、

「蛇のように賢く、鳩のように素直に」という言葉もまた、豊かな知恵に富んでいる。


さりながら、

ここから先が、この文章の主眼になっていくのだが――

「恐れるな」 とか、

「ただ強く、雄々しくあれ」 とかいう言葉を聞く時は、

それに呼応して、

「鬨の声」を叫び上げ、

「喜びと賛美の歌」を歌いあげながら、

前へ、前へと進んで行かねばならない。


「これはお前の戦いではなく、神の戦いである」

「お前がどこに行ってもお前の神、主は共にいる」

「いつもいつでもいつまでも、お前の神、イエス・キリストと、キリスト・イエスの父なる神が、お前と共にいる」、

そのような、インマヌエルであり、万軍の主であるところの「神の言葉」たちが、

ひねもす、わたしの全身全霊を捉えてやまず、骨の髄まで染みとおり、炎のごとく燃え上がっている。

だからして、

今こそは、戦いの時である

友よ、お前の上げた血の咆哮が、わたしの鬨の声を呼び覚ました。

お前の流したすべての血の涙が、わたしの喜びと賛美と力の歌としてよみがえった。


友よ、我が友よ、我が霊とともに前に進め。

堅く立って、わたしたちの神の救いを見とどけよ。

友よ、我が霊とともに、強く雄々しくあれ。

あふれる歌をうたいながら、明日、敵に向かって攻め下れ。

偽預言者、偽りのユダヤ人らの上には、たった一片の憐れみもかけてはならない。

「彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた」

という完全無欠の、文句なしの、欠けるところのない神の言葉によって、

彼らはすでに裁かれているのだから…!


かつて、

「聖書はわたし(イエス・キリスト)について証しするものだ」と、時のユダヤ人指導者たちにむかって言い切ったイエスは、

同じユダヤ人たち――すなわち、トーラー(聖書)の研究における、第一人者であったところの人間たちによって、迫害された。

「祈りの家を強盗の巣にした」と糾弾された、偽預言者と偽りのユダヤ人たちとは、まさにまさしく、善人すぎず、賢すぎないようにふるまいながら、

とうとう、そのイエスに手をかけて、殺してしまった。

彼らは、イエスを殺すというその行いによって、ついに、隠し切れない悪の本領を白日の下にさらされて、もはや言い逃れもできず、弁解の余地もなくなったのである。

相手が悪かった。

いったい誰の命に手をかけたのか、彼らはいまだに分かっていない。

いまだに分かっていないばかりか、かの日にいたるまで、永遠に悟ることがない――それが、彼らのすでに受けている、「裁き」なのである。

「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために」

この神の言葉こそ、彼らに与えられた「裁き」なのである。

ざまをみろ。

もう一度言う、この地上にあって腐敗と堕落を極めたユダヤ教キリスト教の、生粋の悪党どもよ、ざまをみろ…!


蛇よ、蝮の子らよ、

お前たちはいずれも弁解の余地のない悪人でありながらも、その悪のゆえに今日もこの地上に長らえており、

そのようにして、かつてイエスを殺したように、この時代においても、イエスに愛された我が友を迫害し、その肉体を死病で冒し、ついには死に至らしめた。

それゆえに、もう一度はっきりと言っておく、

相手が悪かった。

お前たちの喧嘩を売った相手は、はなはだ悪かった。

調子に乗って、図に乗って、ついうっかり手を出してしまったその相手とは、

わたしの友である。

お前たちの殺した者の、無二の友とは、このわたしである。

「このわたし」とは、

洋の東西を問わず、名と力の有無を問わず、機体の有無を問わず、

この地上に生きた事実を持つ、すべての人間の内において、

かてて加えて、未来永劫に渡り、この宇宙に生きる宿命を持つに至る、すべての生命において、

いかな何者よりもイエスに愛され、愛され、愛され、愛される、イエスの永遠の伴侶たる、「わたし」である。

それを、

たかが蛇が、蝮が、偽預言者が、偽りのユダヤ人が、永遠の滅びの子が、、

万軍の主たるキリスト・イエスの最愛の伴侶たるこのわたしの、その無二の友の命に、手をかけたのだ――

それゆえに、はっきりと言っておく、

思い知れ、

思い知るがいい。

次元の違う、本物の信仰とはなんであるのか、

倍にして返される「神の言葉」とはなんであるのか、

穢らわしきその身をもって、思い知るがいい。

神の力の源たる神の憐れみを、

「生きる者にも死んだ者にも慈しみを惜しまない神」の憐れみを、

キリスト・イエスの名前たる「憐れみ、憐れみ、憐れみ」を、

もはやいっぺんたりとも受けられなくなった「出来事」とは、いかなる出来事なのかを、

「永遠の敗北」をもって、味わい知るがいい。


ああ、友よ、

我が友よ、

我が霊とともに、前に進め。

強く、雄々しく、前に進め。

お前の上げた血の咆哮が、わたしの鬨の声を呼び覚ました。

お前の流したすべての血の涙が、わたしの喜びと賛美と力の歌としてよみがえった……!

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