棘と愛 ③
――
かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。
――
はっきりと言っておくが、
私は人にどう思われようとも、まったく構わない。
青春の日々も心も生活も、神によってめちゃくちゃにされたがために譫妄状態に陥って、精神の最奥部において発狂の進行が止まらないのだろう――などというふうに誰に見なされたところで、いっこうに興味がない。
たとえ自分自身でそう思わざるを得ないほど身も心も追い詰められていたとして、それがなんであろう。
もうなんどもなんども書いて来たことではあるが、私の意識している相手があるとしたら、「人」なんかではなく「神」ただひとりなのだから。
その「神」も、イエス・キリストをおいてほかにはない。
私が私の心と生活とをもって見出したイエス・キリストとは、「インマヌエルの神」に違いなかった。
インマヌエル――
神は共にいる――
わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる――
こんなふうに言っても言われても、ピンと来ない人のために翻訳してみようか。
すなわち、
インマヌエルとは、「イエス・キリストの望み」のことである。
イエスという神が、わたしの心の中に住むこと――
いつも、いつでも、そしていつまでも、わたしの心の中に住み続けたいと思っていること――
そのような「イエス・キリストの心情」のことである。
それゆえに、
「神の御心」などと言われるものとは、
「道」だの「真理」だの「奥義」だのいうご大層な言葉の意味とは、
イエスという神が、何を思っていて、何を考えているのかという、「その程度の話」にすぎないのである。
「その程度の話」を知るために、私は我が青春を犠牲にした、させられた。
今もなお、あの頃以上にそうしている、させられている――まるでまるで、本物の馬鹿みたいに…。
しかししかし、
はっきりとはっきりと言っておくが、
私は見出すことはなかった。
自分がこの世の金のように熱心に捜し求めた、「イエス・キリストの心情」をば、
すなわち、イエスという神が何を思い、何を考えているのかという「その程度の話」をさえ、
この世の「教会」とか「クリスチャン」とかいう世界においては、私は見出すことなどけっしてけっしてなかった。
それでは、
そんな私の心と生活が見出した、「イエス・キリストの心情」とは、いったいなんであったというのだろうか――?
若き私が自分で食べて自分で味わった、そのひとつを語るのならば、
それも私が得意とする、くだけにくだけた言葉遣いでもって翻訳するとするならば――
「ぼくはずっと一緒にいたいほどおまえが好き」
「ぼくのパパがほかのだれよりもぼくのことが好きであるように、ぼくもこの世の誰よりも、おまえのことが好き」
というものであった……。
ああ、それゆえに、
私は先に言っておいたのである。
私は人にどう思われようともまったく気にしない、と。
譫妄野郎だと、発狂野郎だと、馬鹿野郎だと――なんと言われようとも、「人」の言葉なぞ、私のためにはいかなる威力もない。
それ以上に、
私は先に言っておいたでははないか。
「真理」だの「奥義」だのと、なんともご大層な単語を用いられて語られてはいるものの、そこに秘められたものなど「その程度の話」でしかない――と。
それゆえに、
バカバカしいと思ったならば、おおいに笑ったらいい。書いている当の本人が、バカバカしいと思っていないとでも思うのか。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」――その言葉のとおりに、否が応でも犠牲になった我が青春において見出した「真理」が、「奥義」が、「天の宝」が、、、
「この世のだれよりも、ぼくはおまえのことが好き」、だったなんて――!
まるでまるで三流芝居のクソ科白みたいなものをば大真面目に書かされている、こっちの身にもなってもらいたい…。
しかししかし、
はっきりとはっきりとはっきりと言っておくが、
私は「わたしの神である、インマヌエルのイエス・キリストの霊」から、
このように書けと言われたまま書いているまでである。
それゆえに、
私のいま書き連ねている事柄は、人を恐怖に陥れるような「教義」でもなく、人の心を救いもしない「水槽のバプテスマ」でも、人の生活を守りもしない「アーメンごっこ」のようなシロモノでもない。
「この世のだれよりも、ぼくはおまえのことが好き」と言われて、どこの世界に、恐怖に陥ったりする人間がいるだろうか。
私は知っている。
『コヘレトの言葉』から、この世のいかなる富にもはるかに勝る「イエス・キリストの知恵」を授かって、「心と生活を守るための勇気と力」を与えてもらっている私には、
『ヨブ記』から、「イエス・キリストの黙示」をしっかりと聞き分けて、「文句なしの神の憐れみも、恵みも、救いの約束」もはっきりと聞き取っている私には、
『申命記』から、「イエス・キリストの再臨」の啓示を受けて、その「ゆるぎなき希望」をばしっかりと胸に刻みこんでいる私には、
自分の人生という『聖書』から、「信仰」という「いま生きている神、インマヌエルのイエス・キリストの霊」を与えられて、今日も「永遠の命」の中を生きている私には、
「この世のだれよりも、ぼくはおまえが好き」というバカバカしい、あまりにバカバカしいひと言が、
なにゆえに「ありとあらゆる神の約束の成就」であるのかを、知っているのである。
その証拠のひとつに、
私は私の書いた(書かされた)文章であるところの、『主の軛』という詩を、大変に愛している。
『哀歌』を下敷きにしたこのごくごく短い詩の中には、インマヌエルのイエス・キリストの心情が、まことにまことに美しく語られている。
古今東西、老若男女、人種国籍、有名無名を問わず――私がこれまで邂逅して来た「自称クリスチャン」とかいう人々の中で、
私の『主の軛』以上に美しく、インマヌエルのイエス・キリストの情感を詠んだ詩を、私はひとつも知らない。(断っておくが、私は「知らない」と言ったまでで、「ない」とは言っていない。)
同様に、
安息日の議論だの、終末の予兆だの、イスラエル国家だのと、のべつまくなしに喋りたてる「偽預言者」たちには、「インマヌエルのイエス・キリストの心情」など、けっして分からない。
分からないから、彼らは言う。
「終末の時代には、ユダヤ人たちが中心となって活躍するであろう」などと。
その通りである。
しかし、彼らが「ユダヤ人」と言っているのは血肉の、骨肉の、系図的なユダヤ民族のことであって、
イエスや私のような、「内面がユダヤ人である、ほんとうのユダヤ人」のことを指しているのでは、けっしてない。
私はここで、あえて「イエスや私のような」と言った。
それは、
「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」
この言葉についても、私ははっきりとした「イエス・キリストの啓示」を、受けているからである。
その啓示とは、「まことの教会」のことである。
また、「良い木」のこと、「まことのぶどうの木」のこと、「まことのぶどうの木につながった枝」のことである。
上で述べられた「キリストと教会」の「教会」とは、たとえば私のように、「信仰」という「インマヌエルのイエス・キリストの霊」を心に授かった人々のことを指しているのである。
同様に、
「信仰」という「インマヌエルのイエス・キリストの霊」が住んでいない「偽りの教会」には、けっして分からない。
分からないから、彼らは言う。
たとえば、
『ヨブ記』において、最後に主なる神が嵐の中で「ヨブに答えて言った」とはっきりと書かれてあるのに、
主なる神はヨブの問いかけに最後まで「答えていない」、などと。
しょせん本にすぎない聖書も、自分の人生という聖書も、「信仰」によって読んでいないから、彼らには分からないのである。
たとえば、べヘモットとレビヤタンを語ることを通して、主なる神がほんとうは何を語ろうとしているのか、
その時の「イエス・キリストの心情」のなんであるのか、
自分で食べて、自分で味わうこともなければ、
自分の目で見分けることも、自分の耳で聞き分けることも、自分の心で聞き取ることも、できないのである。
それゆえに、
べヘモットとは、河馬のことであり、レビヤタンとは鰐のことである――
とか、
べヘモットもレビヤタンも恐竜のことである――
とか、
ヘブライ語では、べヘモットとは動物の複数形のことで、レビヤタンは渦を巻いたものという意味である――
とか、
べヘモットもレビヤタンも、この地上世界における危険と無秩序の象徴のことである――
とか、
べヘモットもレビヤタンも神の力と知恵の体現であり、人に過ぎないヨブとの圧倒的な差について語っているのだ――
とか、
おおよそ、こんな程度のマトハズレな、あるいは糞土の役にも立たないような「ご解説」しか、彼らにはできないのである。
しかししかし、
「内面がユダヤ人」であり、
「二人の者は一体となる」というイエス・キリストの啓示を与えられた「まことの教会」であり、「神の家」であるところの私には、
べヘモットの尾や骨組みについての叙述からも、たとえば「わたしは主である」という「文句なしの救い」をば、見出すことができる。
レビヤタンのくしゃみやまばたきの描写からも、「僕はおまえのことがいちばん好き」というイエス・キリストの心情をばはっきりと、くっきりと、しっかりと見出すことができるのである。
そして私は私のように、ヨブ記のべヘモットとレビヤタンについて語った者を、私以外にひとりも知らない、ただのひとりも知らない。(断っておくが、私は「知らない」と言ったまでで、「いない」とは言っていない。)
つづく・・・
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