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断食芸人と観客(※文学ってなんだ 18)
「ダッシュボードも知らないのか?」
と、驚いたような顔をして言われたので、
「車の助手席の収納スペースくらい知ってるよ」
と答えたところ、さらに大笑いされた。…
数日前の事である。
とある知人と会って、夕食をともにしていたら、話題がこの note のことになり、「実は俺も note やってるよ」と白状したところ、「見せてみろ」というので、スマホを手渡した。
知人の男が、「へぇ、まぁまぁじゃないか」と言ったので、「どの記事を読んだんだ?」と問うてみれば、
「記事なんか読んでない。ダッシュボードを見たんだ」
と言う。
「なんだ、それ」
と言った私に対して、冒頭のようなやり取りになった、というわけである。
で、そんなふうにして、つい先日はじめて知った「ダッシュボード」によると、月間のpv数が約12,000強で、それがここ4ヶ月間続けられていることが分かる――という内容であった。
知人が、「まぁまぁ」と表現したのは、そのことだった。
しかし、何がどう「まぁまぁ」なのかと尋ねてみれば、「ブログ初心者でこのpv数なら、まぁまぁ良いほう。やりようによっては、月1万円くらいの「収益」になる」との話だった。
「へぇ…」と答えたものの、その「やりよう」の詳細に、興味が沸いて来なかった。
しかし、いかにも聞いてほしそうな知人の目顔をおもんばかって、いちおう聞くだけ聞いてみようと尋ねてみたのだったが、
――そこから先は、まるで外国語を聞いているようで、ほとんど理解不能だった。
唯一分かったのは、「アフィリエイト」くらいだったが、「何事もやってみなきゃ分からない」が信条の私でも、そこは「食わず嫌い」している領域に違いなかった。
「しかし、pv数の割に、全然 ”スキ” されてないし、"サポート” も無いんだろ?」
と知人が言うので、念のため確認してみたら、はたしてゼロだった。
「じゃあ、俺には収益化は難しいね」
と言って、この話を終いにしようとした時、次の一言が私に向かって、投げかけられた。
「お前、いったい何のために note やってるの?」
なんのため――?
もういくどとなく、私は書いている。知人は「読まなかった記事」の中で、書いている。
文章を書くのは、「昨日よりも上手くなりたい」、「今日よりも上手くなりたい」という理由からだ。また、そのような目的から紡がれる言葉は、「神に向かってする祈りのようなもの」で、――要するに、誰かのためよりも、自分のためのものだ、と。
だったらなにゆえに、note という「公器」を用いているのだろうか?
「公器」を用いている以上、まるでそんな自分の「祈り」のようなものを、誰かに聞かせるような行為ではないか。
――それを否定してみたところが、「公器」を用いている以上、まったく説得力がない。
「祈るならば、「隠れたところ」で祈れ」という言葉にも、あきらかに反しているとも受け取れる所為である。
――それを否定してみたところが、「公器」を用いている限り、そう言われてしまえばそれまでなのである。
がしかし、ここで思い出した話が、カフカの書いた『断食芸人』という短編だった。
もう十数年ぶりに、あらためて表紙を開いて読み返してみて――色々とケチをつけたくなったのであったが(とくにラストシーンの「会話」も、「豹」についての説明文も、どちらも興ざめでしかなかった)、それでもやっぱり示唆に富んだ、なかなか面白い小説だった。
断食芸人は、真の玄人である。今の言葉で言う、「プロフェッショナル」である。断食という自分の「曲芸」に、並々ならぬ「思い」を持って、取り組んでいる。今の言葉で言う、プライドとかプロ意識とかいったものである。それがどのくらい並々ならぬものなのかというと、
―― なぜ人々は、彼がさらに断食をつづけ、あらゆる時代の最大の断食芸人となるだけでなく――おそらくすでにそうだろうから――さらに自分自身を越え、想像もつかない程度にまで達する名誉をうばおうとするのか? ――
という一文を抜粋してみても、想像せられる所だろう。
しかし、薄情な「時代」は移り変わり、移り気な「観客たち」はそんな断食芸人を置き去りにして、「次なる興行」へとその関心を移していってしまう。
その昔は、「断食芸」単体で、数千人もの人々の拍手を買い、興行収入も十分以上にあったのだったが、――そんな成功は一夜の夢のごとく、ついには、断食芸人は「サーカス」に身売りされてしまうのである。
「サーカス」の中で、断食芸人は、その他の動物たちのような、見世物の一部となる。成り下がる。あまつさえ、もはや断食芸に「関心を失った」人々は、ただただ「動物たち」を見に行くために、断食芸人の入れられた檻の前をば通り過ぎていくばかりである。
そんなふうに、忘れられた断食芸人は、「腐った藁の中」で死んでいくのだったが、最後の最後で、こんなふうに生きる。
―― こうして、断食芸人は、以前彼が夢みたように断食をつづけた。当時予言した、そのとおりに、彼はやすやすとやりとげた。しかしだれも日数を数えなった。だれも、断食芸人自身さえ、どれだけの実績がすでにあげられたのか知らなかった ――
断食芸人のような「人気商売」にとって、世間がどれほどに「気まぐれな存在」であることか、――たとえば、このような分かりやすい視点から読んでいけば、この小説は容易に理解できるに違いない。
断食芸単体で食っていけた頃の興行主――断食芸人のパートナー――は、断食芸人を「商品」として扱いながらも、「人間」として扱うことも忘れていなかった。(しかし、ここがカフカらしいところで、「命や尊厳」よりも「社会的価値」に重きを置こうとする「雇い主」の姿の方が、必ず強調されている。)
そんな、「生涯にまたとない仲間」であった興行主から、サーカスの監督へと、「雇い主」が変わった時、断食芸人の運命も決まったのだった。
完全に「人」から「商品」として、「人間」から「芸人」として、その命をまっとうする、という運命が。
しかし、皮肉にも(カフカらしい!)、それは断食芸人にとって、長年夢みてきた「夢の実現」にほかならなかった。彼は「当時予言したような」、「自分自身を越え、想像もつかない程度にまで」到達し、「あらゆる時代の最大の断食芸人」となったのである。
が、さらなる皮肉として(ザ・カフカ!)、そこに「名誉」はなかった。なぜならば、そのような「名誉」は、かつて「人々」から奪われたように、また、同じ「人々」からも、けっして与えられることがなかったからである。
だから、断食芸人が死んだ後、死体と死体を乗せた「腐った藁」に向かって、サーカスの監督がのたまう一言は、実に生々しく、見事でさえある。
「さあ、片づけるんだ!」 …
余談にはなるが、この「片づけるんだ」が、じつに素晴らしく発せられているがゆえに、その前の場面で交わされる、サーカスの監督と断食芸人との「会話」が、余計にヒドイものに見えてくるのである。だって、これはいかにもヨーロッパ的な、「ルサンチマン」の表現でしかないから。「ルサンチマン」であるがゆえに、そこには何の同情も沸いて来ず、心が動かされることもいっさいないから。
そして、断食芸人が「片づけられた」後に、入りかわりに入れられた、「若い豹」について、「なに不足はなかった」とか、「必要なものをすべて、はち切れそうなほど備えているこの高貴なからだは、自由をも身につけているようだった」とか、「おしゃべり」してしまっている――これはもう、残念でならない。残念以上に、「ヘタくそ」だと言わざるを得ない。
毒虫となったグレゴール・ザムザが、ついに死んだことによって、残された「家族たち」がいかにも「解放」されて、その象徴としてのザムザの妹の、「若々しい肢体がぐっと伸ばされた」――と描いただけの『変身』のエンディングの方が、はるかに巧みな仕上がりである。…
とまあ、そんな文学寸評は、これくらいにして、冒頭の「ダッシュボード」に、話に戻そう。
もしも私が、さながら断食芸人のように、「自分自身を越えたい」がために、文章を書き連ねているとしたならば、
いったい、なにゆえに、note というプラットフォームを利用しているのか?
若き日の断食芸人のように、「食っていけるだけの歓心」も買えず、老朽した彼のように「サーカスの一部」にさえ、なれてもいないというのに。
あまつさえ、
「自分自身を越えたい」だけならまだしも、「神に祈るような」行為であるとまでいうならば、「祈るなら「隠れたところ」で祈れ」と、私が常々批判しているカンチガイ「教会」や「レビ人」たちからも、言われてしまいそうである。
だが、私からしてみれば、note で文章を書いている今の行為は、十分に「隠れたところの祈り」なのである。
その証拠に、私の知人は「記事なんか読まずに、ダッシュボードを見た」ではないか。まるで、断食芸人の檻を素通りして、他の動物たちの檻へと急いだ観客たちのように。
かといって、私は自分自身を、断食芸人ならぬ「祈り芸人」だなんて、思っていない。「芸人」というならば、まるでトンチンカンなお説教を垂れながらも、「献金」を「投げ銭」してもらっているような「教会」や「レビ人」たちの方が、どれだけ「芸人」っぽいだろうか…!
私が note というプラットフォームを利用しているのは、今までずっと、「隠れたところ」で祈って来た結果だと、言えるのである。今の今まで、ずっとずっとずっと、私は「隠れたところ」で、ひとり書き続け、ひとり祈り続けて来た。
それが、「心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がり」、もはや押さえつけることができなくなったからこそ、note のような「公器」を利用し出したというわけである。
だから、誰にも、私を黙らせることはできないのである。黙らせることができるとしたら、「火のように燃え上がらせて」、今も私を書かせている、「わたしの神」だけである。
それゆえに、
私は、ダッシュボードにも関心がなければ、アフィリエイトにも、サポートにも、いかなる収益化にも、興味がない。
ほんとうに「やりよう」によっては、月1万円でも稼げるというのならば、トライしてみるべきなのかもしれないが、やっぱり心は動かない。しかし時々、「なんだこんな程度のレベルの教会が、信者数を増やして、献金も増やして…」と思ったことは多々あった。そんな気持ちをば「父なる神」に向かって、正直に告白したこともあった。
しかし、さながら「サーカス」のような、「断食芸人」のような、そんな「人気商売」みたいな「教会」ならば、移り気な「世間」と、たまゆらな「時代」によって、やがて「素通り」されていくのがオチである。だから、その程度のレベルの「曲芸」なんぞに、かかずりあっている余暇なんかないのである。
ついでに言えば、この文章を読んでいただいた方で、カフカの『断食芸人』に興味を持った方のために、「アフィリエイト」しようかと思ったが、それもやめた。だって、個人的に、カフカのような「ルサンチマン文学」は推薦できないから。カフカ自身、「気まぐれな世間」なんかを相手に、「断食芸」をしてみせたりするから、「ルサンチマン」に捕らわれてしまうのである。まさに「ダッシュボードの数字」なんか、移り変わるに決まっているではないか…!
だから私は、以前にも、『読者は誰か?』という文章の中で書いたのである。
意識すべき読者は、「神」であって「人」ではない、と。
確認すべきダッシュボードがあるとしたら、アフィリエイトしたい相手があるとしたら、収益化をはかりたい観客がいるとしたら――すべて、すべて、すべて、「わたしの神」である。
なぜ?
「わたしの神」、「父なる神」は、「移り気」な神ではなく、「幾千代にも及ぶ慈しみを守る」方であると、そう知っているから。