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始めに言葉ありき

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ 

井伏鱒二(明治31年生まれ平成5年没。享年95歳)の訳詩の一節である。

訳詩とはいえ、たったこれだけの言葉とはいえ、このような美しい芸術を遺した天才は、たったこれだけの言葉をもってしても、全ての文学を愛好する人間から、ほとんど永久に賞賛され続けるだろう。文学を愛するものだけでない、彼の言葉は、極東のある小さな島国の、特異な言語を操る人間全てにとっての、かけがえのない遺産である。ちょうど「詩篇」が、全イスラエル民族にとっての、美しい財産であるように。


The mission of Facebook is to give people the power to share, and make the world more open and connected.

21世紀を代表するアメリカの大企業、Facebook(現Meta)の創始者の言葉である。私が、21世紀において、最も嫌いな言葉の一つである。

これこそ、グローバリゼーションなるものの、象徴的一思想である。またそして、いわるゆ企業家なる人間たちの、「面白そうだからやってみよう」という後先考えぬ好奇心か、単なる金儲けの手段をば、まるで上品に、まことしやかに、崇高なる志であるかのように装わせた、胡散臭い徒花の典型である。こんな、はなはだしくも厚顔無恥もきわまった言葉たるや、大企業家の唇からでなくとも、聞けるもの。例えば、サラリーマン時代に私の隣の席に座っていた、もうこれ以上発展しようのない上司の、ヤニ臭い歯茎の奥からも。



ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
トリノナクネデ目ガサメマシタ
ヨルノアラシニ雨マジリ
散ッタ木ノ花イカホドバカリ

この世の中に、くだらない言葉たるや、まるで海辺の砂のように存在するけれども、この詩のような美しい調べは、さながらそんな海辺の砂に紛れ込んだ、一粒の砂金を見つけるような作業かも知れない。

井伏鱒二の詩の、何がどう美しいのか、ここではあえて説明しない。いや本当は、そんな事はしなくてもいいし、するべきではない。これが美しいと分からないのなら、心に芸術的素養もなければ、正しい感受性すら無いものと、自覚すべきである。おおよそ、芸術の創作とは、神のように美しいものへの果てしない憧憬と、畏怖から成るものである。「面白そうだからやってみよう」なる砂場の幼児的ひらめきとは、もとより次元が違う。

ケンチコヒシヤヨサムノバンニ
アチラコチラデブンガクカタル
サビシイ庭ニマツカサオチテ
トテモオマヘハ寝ニクウゴザロ

井伏鱒二の言葉は、美しい。何度飲んでも美味い酒のように、美しい。そして、何という含蓄な言語であろう。こんなにも素晴らしい日本語が、他にどのくらいあっただろうか…

話の重心をずらすようだが、私は、英語を好かない。
英語のみならず、全ての外国語というものを、まったく好かない。

外国語というものに、何かひたすら悪意をもって、咎を着せようというのではない。言語とは、すなわち、音である。音が美しい音として聞こえない事を好かず、そのために自らの唇をもって正確な音として発音し得ない事を、好かないのである。しかし、それは私の耳のせいでもなく、舌のせいでもない。生まれた大地が違う、祖先が違う、生きる嗜好、死ぬ嗜好が違うのである。

私には、明治のどこぞの日本人のように、瞳を輝かせて臨海丸に乗り、太平洋の向こう側の大陸で英語を学ばんとする憧れも無ければ、そのようなナイーブ好奇心も、低位な必然性も、何一つありはしない。21世紀という時代が、祖国を出よ、祖国においても外国語を話せよ、と要求していたとして、それが何だろう。なぜ時代ごときが、私にそんな要求をできるのか。どんなに美しい音楽でも、自分の耳で美しいと感じ得ないならば、その音楽は死んでしまう。

自分の舌という先天的楽器により美しい音を(最低でも正確な音を)奏で得ないならば、その音楽は死んでしまう。だから私は、外国語を好かないのである。いささかも、自ら好んで聞きたいとも、話したいとも思わない。サラリーマン時代に、何度人から勧められても、英語を使う仕事にほとんど就かなかったのは、これが理由だった。

少年の頃、外国に暮らして、我が身に刻み込んだ真実とは、異言語に対する美意識でない事はもちろん、グローバリゼーションなる危険思想でも、人種や宗教や文化や国境を越えた相互理解、とかいう、口先だけの偽善的幻想などでもなかった。むしろ、「我日本語のみ愛すなり」という生活臭い、しかし揺るぎなき発見だった。

かつて20世紀初頭に、愛すべき先輩が、半ば発狂しながらロンドンにて体験し、確信に至った真実を、21世紀好みの分かり易い表現に要約すると(私はこういう時代の風潮が大嫌いである)、このようになるかもしれない。そしてこれこそが、我が思春期の、決定的な「個人的体験」だった。 

それゆえに、我が人生は、私にもう一つの思想を託したのだ。

いわば「道祖神の思想」である。道祖神とは、村の入り口に置かれた神様の事を言い、昔の人は、自分の村を訪れる者が疫病や災いをもたらすのを防ぐために、この神に祈りをささげた事は、周知の通りである。

私は、外国に暮らした為ばかりでない、21世紀という時代を眺むれば眺むるほど、この道祖神の思想を忘れた世相の恐ろしさと、愚かしさとを、憎むに至った。このまま、世界をより開けた社会にして行こうとすれば、あらゆる人間が簡単に繋がる事のできる「幼児の砂場」に変えて行こうとすれば、必ずや、手痛いしっぺ返しを見るに違いない。そう危惧するからである。例えば、Facebookの浅薄かつ軽薄な企業使命などに、どうして賛同できようか。

しかし馬鹿でもなければ、グローバリゼーションはもはや誰にも止められないことは、自明の理である。馬鹿でもなければ、これは紛れもない、「人類の業」であり――かつて、彼の西方の国で宗教改革や産業革命やフランス革命なるものが生まれたように、その為に世界大戦や環境汚染もが一緒に生み出されたように――、この狂気の時代の到来は始めから運命付けられていて、例えひどいしっぺ返しに見舞われようとも、行き着くところまでは、必ず行き着くであろうことも、明白である。

時代の風に帆をはらませて船に乗りたい者は、そうすれば良い。そうしたくない者は、乗らなければよい。ただし、望む望まざるに関わらず、いまや世界中の人間が、グローバリゼーションの恩恵と被害とを、毎日の生活の中で併せ受けているのだから、船に乗らないという選択は、もはやできなくなってしまった。

恐ろしい時代の船が、否応なく私を乗せて、どこへ進んで行くのか知りたくもない。知りたくもないが、覚悟は決めている。狂気の時代の船に乗せられ、どこへ連れて行かれようとも、幼児的で末恐ろしい理念とは絶対に和解もしなければ、支持もしない。道祖神の思想こそ、我が信念である事を、この命尽きるまで変えるつもりはない。

グローバリゼーションは、バベルの塔である。かつて神は、塔の建設を阻止すべく、人間にあらゆる言語を与えたのだ。いまさら、そんな愚かなる試みが、どうして成功するだろうか。成功するかも知れないなどという甘過ぎる見込みを、いったい誰がはじめに流布したのだろう。make the world more open and connected,だと――人種や宗教や文化や国境の違いを越えた相互理解、だと――おバカもいい加減にしてもらいたい。

フルート、ピアノ、ヴァイオリンなどの演奏を併せて、同じ音楽を紡ぐこと、つまりはオーケストラである。グローバリゼーションとは、オーケストラなのだ。世界平和を奏でるオーケストラなのだ。そんな事をば、臆面もなくのたまう頓珍漢までいた。サンタクロースの赤い帽子のように明白な、そんな恥ずかしい嘘によって、はたして誰が騙されようぞ。いつか、この恐ろしい時代も、虚しい風のごとく、移り変わる。その時こそ、バベルの塔は崩壊し、オーケストラは社会主義革命のように壮大にして無様な失敗として、歴史に刻まれることだろう。

なぜなら、グローバリゼーションの正体とは、植民地主義に他ならない。時代がこれからも、英語が世界中に蔓延することを許すのであれば、植民地主義は着実に進行することだろう。

私は、我が先天的楽器を、井伏鱒二のように、ひたすら美しく奏でるために精進するだけである。しかし、いかなるオーケストラにも絶対に参画することはない。世界でたった一人きりになっても良いから、誰のためでもない、自分のためにこそ、美しい日本語を奏でるのである。これこそ、道祖神の思想である。

最後に、井伏鱒二が、道祖神の思想の教祖だなど言うつもりが、私に微塵も無いことだけ、この偉大な先人の名誉のために、書き添えておく。私は、ただ美しい日本語を、書きたいだけである。その最良の手本の一つが、井伏鱒二の日本語だというだけだ。

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