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聖書は、世界という船の「舵」である(※補足)
小乗は小さな車、大乗は大きな車。
小さな車に乗り切れない人々を、大きな車によって救わんがためにこそ、三蔵法師は天竺へ旅立った。
長い長い苦難の旅にあって、三蔵の心から決して忘れられることのなかったものとは、何であったか。
それは、小乗に乗り切れない人々(妖怪や魑魅魍魎の類を含む)に対する、無限の「憐れみ」だった。
この「憐れみ」こそ、あらゆる宗教の根源にあるべきものである。
いやしくも、唯一の真の神と呼ばれる「ヤハウェ」の名は、「憐れみ深い」なのだから。
日本の親鸞は、三蔵のように、天竺へ「大乗」を取りに行った宗教家だった。
「慙愧に堪えない悪の塊」と自らを捉え(自分をさながら妖怪のようだと認識し)、南無阿弥陀仏という「大きな車」を、民衆へもたらした。
親鸞の心にあったものも、間違いなく、「慙愧に堪えない」自他への「憐れみ」だった。
ところが、はるかなる天竺まで、わざわざ、「小乗」を授かりに行った頓珍漢も、歴史上には存在する。
カトリックの免罪符という「小さな車」に乗り切れなかった人々に対して、プロテスタントの予定説という、さらにさらに「小さな車」を授かりに行った宗教家が、それである。
どうして、こうもセンスが無いのだろうと、今まで不思議に思っていたが、ほどなくして、心に「憐れみ」が欠けていたからだと分かった。
「憐れみ」が欠けている心など、どんなにご立派な屁理屈を重ね連ねてみても、ひっきょう、「小さな車」にしかなりえない。
はらわたが捩れるほど激しく痛む――そのような痛みから流れ出たひと言と、さかしらな脳みそでもってひねくり出した作文と、いったいどちらが人を救うだろうか。
そんなことさえ分かっていない「レビ人」たちが、今なお、世界中にのさばっている。
「イエスは憐れみ深い神の子」と口先ではのたまいながら、南無阿弥陀仏のような「ひと言」を、妖怪たちへもたらすことさえできていない。
それゆえ、自称・売れない小説家は、「南無阿弥陀仏」のような「憐れみ」の種を、世界中にばら撒こうと思いました。
まずは、猫の額よりも小さな、自分の庭の土の上に…。