プロットなんか、王道でなくてもいい(※文学ってなんだ 10)
多くの人に読んでほしい――そんな物語を書きたくば、「王道」を突き進めばいい。
王道ってなんだ?
作中に、「面白いイベント」を起こすことである。
別に突拍子もない出来事でなくたっていい。ただ「面白いかどうか」で、すべてが決まる。「面白く」なかったら、それで終わりである。
そしてもう一つ、主人公たちの「内的葛藤」が描かれているかどうか、これである。
それもなんだっていい。とかくに、ある者の「内的葛藤」が、物語の最後にあって「浄化せられ」、「昇華せられていく」様を描く。
これが、あらゆる物語の王道である。
すなわち、
「ある内的葛藤を抱えた人間が、面白いイベントを通して、人間的に成長していく」顛末を描くこと、
――たとえば、殺してやりたいほど憎んでいた相手と出会ったことにさえ、ある転換的事件をきっかけにして、どこかで納得し、許し、感謝の意さえ抱かされるような内的変化――
これが、「多くの人に読んでもらう」ための、プロットである。
で、純文学とは、そんな「王道」でなくたっていい。
もちろん、そうやりたければ、それでもいい。王道を突き進む純文学が、存在したらいけない理由などない。
しかし、そうでなくてもいいから、「純文学」などという、ふしぎな、おかしな、やっかいなジャンルが、この世界に存在するのである。
少しく考えてみれば自ずから分かることだが、「王道」を進みたくとも、必ずしもそうさせてはくれなかった現象が、そこら中に転がっているからこその、「人生」なのだから。
そんな「ままならない人生」を、「王道」の方へといざなう役処は、純文学のものではない。
もちろん、くりかえしになるが、そんな純文学があったってかまわない。
しかし、だったら「文字」だけでなく、「画」を用いた方が、より「効率的」というものである。
なにゆえに、「文字」だけ、「文章」だけ、「言葉」だけで、勝負するのか。
それしか表現方法がなかったような「昔」とは、ワケが違う。
そんな「昔」の亡霊を追い求めるのは、的が外れている。
「王道」から逸れてしまったか、弾き飛ばされてしまったか、いずれにしても離脱を選ばざるを得なかったかで、ふてくされているか、やさぐれているか、あまったれているかしているのが、「昔」の亡霊である。
ひるがえって、「王道」へいざなおう、いざなおうとイキっているのが、「現代」の亡霊である。
つまるところ、「王道」なんか、意識し過ぎないことである。
誰だって、死にたいワケがない。成長したいに決まっている。
人生は、上がったり、下がったり、また上がったり、また下がったり、のくり返しである。下がったら、上がりたいに決まっている。
そんな「王道」、もしくは「構造」が、いちばん大切なのではない。
「王道」が、いったいどこへつながっているか、こそである。
浄化、成長、解決、達成、救済、成功、幸福、祝福・・・?
すなわち、
「オマエいったい、なにがほしいの?」
「オマエの神は、ひっきょうだれなの?」
ということである。
これらをすべてまとめると、
純文学とは、「どんな神」に、「どこで出会う」か、
――そんなことをさえ、ろくすっぽ考えないままラ・マンチャの村を旅立った、おバカな「オマエ」の一生を追うことである。
願わくば、そんなおバカな「オマエ」に、(真実の)神のご加護と祝福がありますように……