
棘と愛 ②
―― 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ ――
私の青春とは、先に述べたような、偽教師や偽預言者たちとの戦いであった。
また、彼らの背後で糸を引く、「偽りのユダヤ人たち」との戦いでもあった。
そして私はなんどとなく、「悪い木」から「悪い実」を取って食べて来た。
そうとは知らず、そうとは思わず、そうとは想像さえできないままに――。
がしかし、
それが失敗でなくて、なんであろうか。
知りながら犯した罪であろうが、知らずに犯した罪であろうが、罪が罪でなくて、なんであろうか。
かつて私は、悪い木の悪い実をば味わった。
「自分で食べて、自分で味わえ」という言葉のとおりに、私は自分の歯で食んで、自分の舌をもって味わって来た。
――ああ、私は、「わたしの神、インマヌエルのイエス・キリスト」に感謝する。(殴ってやりたいほど憎かろうが許しがたかろうが、感謝する。)
私が若き日にあって、悪い木の悪い実を味わうことを通して「習い覚えた」のは、「自分で食べて、自分で味わう」という行為にほかならなかったから。
儚き青春の日々における若く愚かな肉体をもって、「習い覚えさせられた」のは、「自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の心に留めよ」という言葉の実践に違いなかったから。
それでも、
それでもなお、他にもやりようがあったのではなかろうか――。
あの頃の若き私が過ごして来た愚直な、あまりに愚直な日々を、
惜しい、あまりに惜しい月々を思い返す度ごとに、そんなふうに忸怩たる思いが沸き上がらないことはない。
それでも――
それでもなお、私は、自分で食べて自分で味わうという、もっとも愚直な方法をもって、「知る力と見分ける力」とを体得して来た。
こうして私は、偽預言者であれ、偽りのユダヤ人たちであれ、彼らのやり口を知った。
すなわち、
彼らは人の「心」と「生活」に狙いを定めて、言葉巧みに忍び寄って来る。
そして人の心を「恐れ」によって、人の生活を「金」によって支配しようとする。
なぜなら、人の心にこそ神が住み、人の生活にこそ神が働くことを、彼らもまた知っているからである。
人の心を攻撃する「恐れ」とは、ひとつに限ったものではない。
実に人間には、多種多様な「恐れ」があることくらい、子供でも分かる話である。
たとえば先に述べたような、どこぞの国と国の間に勃発した戦争は聖書の預言の予兆なのだとか、だから大患難時代が近いのだとか、だからこの世の終わりが迫っているのだとか、だから携挙されたければああしろこうしろだとか――そのようなたわけた「教義」ひとつ取ってみても、それらの言葉の底にいったい何を潜ませているのか、すこし考えてみれば簡単に分かるというものではなかろうか?
すなち、一見それらしい、まことしやかな言葉であっても、自分で食べて味わってみれば、そこに「恐れ」の包み隠されていることを「見分ける」のである。
はっきりと言っておくが、
原初の昔から、イエス・キリストの口癖のひとつは「恐れるな」というものだった。
なぜなら、「わたしがいつもいつでも共にいる(インマヌエル)」から。
しかししかし、
はっきりとはっきりと言っておくが、
「恐れるな」、なぜなら、「水槽に沈められるバプテスマを受けたことがある」からではけっしてない。
なぜなら、「毎週のように教会に熱心に通っている」からでもないし、「毎日のように聖書を読んでいる」からでも、「みんなのようにイエスが主であると心に信じ、口で告白したから」でも、けっしてない。
なんどでもなんどでもくり返すが、
「恐れることなかれ」、なぜとならば、「イエス・キリストがお前の心に住んでいるから」――
これ以外に、恐れないための理由など、けっしてけっしてこの世には存在しない。
私が私の心の中に「インマヌエルのイエス・キリスト」がたしかに住んでいることを知っているのは、
若き頃から、私が「銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜して」来たからである。
「フリーギフトをただ受け取ればいい」というような「大嘘」をまき散らす「教会」の、「水槽のバプテスマ」を受けたからといって、私の心にも私の生活にも、なんの変化も起こらなかった。
これは私の実体験であり、たしかな経験であるのだから、神の御前においてさえ堂々と述べられる嘘偽りのない事実である。
同様に、ハルマゲドンだろうが、イスラエルだろうが、携挙だろうが――そんなものをばまくし立てる「教義」によって喰わされた「恐怖」は、彼らの得々として語る聖書のご解説に耳を傾けようとも、アリガタキお説教に首を垂れようとも、集会に熱心に参加しようとも、けっしてけっして拭い去られるものではなかった。
当然の話である。
絶対に消せないような「恐怖」によってこそ、人の心を支配し続けようとするのが、すなわち、偽預言者たちの「やり口」だからである。
「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」という言葉のとおりに、
ちっぽけな自分の「心」ひとつ守れない人間は、自分の「生活」を守ることもままならない。
自分の心を支配された人間は、自分の生活をも支配される。
それこそが、「偽りのユダヤ人たち」の「目的」だからである。
何千年も何千年も、悪しき知恵をもってたばかり続けている彼らの真の「目的」とは、「人間による人間の支配」なのである。
私は若き頃より、このような彼らの「やり口」によって失敗し、罪を犯し、苦しめられ、辱められ、奪われ、盗まれ、追いやられて来た。
さりながら、
――ああ、私は「わたしの神」に感謝する。
「追いやられたものを、神は尋ね求める」という言葉のとおりに、
その無慈悲な不介入と、無情の傍観の中でも、「インマヌエルのイエス・キリスト」は私の心を悪のくもの巣から救い出し、私の生活を敵の落とし穴から守ってくれたのだった。
それゆえに、
私はこれまで、「偽りのユダヤ人たち」の「悪い実」ばかりを喰わされて来たわけでは、けっしてない。
若き私はこの世の「教会」を去り、「クリスチャン」とか「キリスト教」とか「ユダヤ教」とかいう世界から離れ去った。
さながら劇場のようなホールにおける大集会からも、さながら古代遺跡のような壮麗な礼拝堂の祈祷からも――
どこにでもあるような建物の粗末な椅子の上で首を垂れることからも、山頂の天蓋の下に組まれた小さな円陣の一部分になることからも――
私は自分の足をもって、離れ去った。
そして、
さながらソロモンのように『コヘレトの言葉』を食んだり、さながらヨブのように『ヨブ記』を咀嚼したり、、をくり返した。
本の上で、文字の上でばかりでそうしたのではない――孤独な、ちっぽけな、取るに足らない自分の「生活」の中でこそ――「いちじくも、ぶどうも、ざくろも、種をまく所も、飲む水もない」ような「人生の荒野」の中でこそ、来る日も来る日も、「神の言葉」というやつを飲み込んだのである。
はっきりとはっきりと言っておくが、
だからこそ、私は見出した。
青春の若き喜びもすべて奪われたからこそ、見出した。
青春の若き心も生活もめちゃくちゃにされながらも思いを尽くし、力を尽くし、心を尽くして「天の宝」を捜し求め、尋ね求めたからこそ、見出した。
この世の「金」を求めてもそう簡単には手に入らないように、「天の宝」にいたっては、もっともっと簡単に見出せるようなものでは、けっしてない――少なくとも、私の場合はそうだった。
それゆえに、「思いと力と心を尽くして、天の宝を捜し求める」ことが、「フリーギフトを受け取る」などいう「大嘘」にすり替わっている、この地上における「教会」とか「クリスチャン」とかいう世界など、もっぱらバカバカしくかつウサンクサイものでしかありえない――少なくとも、それが私の見たところである。
それゆえに、
――ああ、私は「わたしの神」にあって感謝し、確信している。
私が自分で噛んで、自分で嚥下した「神の言葉」こそ、「イエスがキリストであるという真理」であった。
「イエスがキリストである」とは、「インマヌエル」のことであった。
「インマヌエルのイエス・キリスト」こそが、あらゆる神の約束の成就であった。
「命のパン」だの「命の水」だの、「道」だの「真理」だのと訳されている言葉のすべては、この「インマヌエル」にこそ、繋がっていたのであった。
つづく・・・