【小説】炎の滴
最果ての雪原にある館は、突然新しい扉や廊下が現れたかと思うと、まったく別の場所に繋がっていることがある。故に迷宮館とも最果ての迷宮とも呼ばれる事があるが、住人たちは慣れたもので、普段自分たちが使っている部屋には十分にたどり着くのである。
その日も住人の一人であるウィルが廊下を歩いていると、見覚えの無い扉があることに気がついた。足を止めて見てみると、妙に熱い扉だった。厚い、のではない。熱いのだ。わざわざ「冬の魔術師」を自称するほどの彼は、眉間に皺を寄せた。館の中は外と違って温かくなってはいるが、ここまで熱いと気になる。変に館の中にまで入ってきて、火事にでもなったら困るからである。彼は少しばかり逡巡したあとに扉を開けた。
扉が通じていた先は、ドーム状のガラスに覆われた空間だった。中央の床には祭壇のように星空を模した模様が描かれていて、そこをめがけて天井の中央からは鎖が吊り下がっている。鎖の先には、小さな赤い宝石のようなものが揺らめいていた。熱を発しているのは、その宝石からだった。不用意ではあったが触ろうとすると、途端にその石の記憶が頭の中に滑り込んできた。
あ、まずい、と思った時には手遅れだった。
それは炎を纏った竜から産まれた宝石だった。
どうやらこの宝石があった世界では、竜というのは時に信仰の対象であり、生きた乗り物であり、あるいは人の良き友でありながら、憎むべき敵だった。
竜は竜であったけれども、その中でも種類というものが存在して、騎兵に適したものだとか、人に慣れたものだとか、反対に会話すらままならない、魔物紛いの凶暴なものだとか――とにかく、巨大な爬虫類に似た翼持つ生物を全般的に竜と呼んでいた。
殺したり殺されたり、憎んだり憎まれたり、愛したり愛されたり――危ういバランスをとりながら、人と竜は生きていた。そこそこうまくいっていたのだ。
そんな時だった。
それがいつの事だったのか、覚えている者はいないだろう。あまりにも突然で、唐突で、人の記憶すら焼き尽くしてしまったのには違いない。だから、「ある日のこと」としておく。
ある日のこと、大地の底より目覚めたかのようなマグマを纏った竜が産まれた。
その竜は、おはようのひと吼えで周囲を焼き尽くした。
それから、ぺろりと牙の生えそろった口許を舐めると、そいつは炎とともに飛び立った。轟音が降り注ぎ、何もかもが燃えていく。
山が裂かれ、森が炎と化し、小さな川はあっという間に蒸発してマグマに飲まれた。巨大な熱に耐えきれず、大地がどろどろと溶けだした。何もかもが竜の炎に飲まれてしまった。竜の炎は強大で、絶対的なほどに燃え盛った。
そのうえ、炎の竜はとんでもなく強かった。
赤い鱗はどんな武器も通さなかったし、鱗と同じ赤い翼を一振りするだけで他の生物を圧倒した。炎の竜は夕焼けのように世界を照らし、空を自在に飛び回りながら、尽きる事のない炎を大地に蔓延らせ、喰らい、そしてまた炎を落とした。
幾千の勇者が彼に挑んだが、炎の竜は勇者の剣ごと大地を炎に変えていった。
世界を憎むように、怒り狂うように、笑い声を響かせて、世界を赤く染め上げた。それは人が作り上げた文明はもとより、自然が作り上げた岩穴一つ見逃さずに自らの炎で満たした。何が彼を駆り立てて、なにゆえ狩り立てられるのか、人々にはついぞわからないまま燃えていった。
いくつもの国が亡び、いくつもの国が境を越えて手をとった。時に決裂したままもろともに崩れ去った。いくつかの新興宗教が立ち上がり、最期の時を炎に舐め尽されることを望んだ。
「かの竜は生贄を求めているのだ」
「かの竜は世界を滅ぼすために遣わされたのだ」
「かの竜は我々の行いを憂い、お怒りになっているのだ」
そのすべての信仰が、炎にまみれて灰になった。
言葉も解釈も、何も意味をなさなかった。
巫女の詩は無残に切り裂かれ、勇者の剣は融け消えた。戦士の斧は折れ曲がり、僧侶の願いは届かない。あらゆる文明に終わりが訪れ、何もかもが炎に飲まれた時、竜は世界で最後の一人となった少女と出会った。
「あなたは何のために世界を炎に変えたのですか」
少女の涙はすぐに蒸発してしまって、もう意味をなさなかった。
黒焦げになった手足は動かず、今にも死んでしまいそうだった。
「俺はこの世界をとても憎んでいて、とても愛している。だからみなすべて飲み込んでやるのさ」
「あなたの炎がこの星を包んだとしても、また命は産まれましょう。あなたの炎によって!」
炎が少女を飲み込み、竜はせせら笑った。
やがて世界は炎の海と化した。
大地は形を保てずに、真っ赤に染まり上がったまま流動を繰り返す。弾かれたように火を纏った石が嵐のように伸びあがっては落ちていく。
すっかり炎にまみれた星を見て、竜はようやく満足した。
腹いっぱいになって、心が満たされた。
これでもう何もない。
憎むべきものも愛すべきものも何もない。
竜は笑い声一つ残すと、自らの炎の中に沈んだ。
轟々と燃え盛るマグマに石を一つ放り込んだように、大きく隆起した。
そうしてウィルは、入り込んできた遠い記憶から目覚めるように手を離した。宝石は相も変わらずきらきらと輝いている。
「……なるほど、竜はいまも自分の炎で燃え続けているとみえる」
なにしろドームの向こうにある、広大な空の向こうでは、いまだに竜は燃え続けた星となってそこにあったのだから。この空間の太陽こそがその星だった。明るいその火は水を産んだ。少女の言う通り、彼の炎は生命すらも産んだらしい。ここはそれを伝える祭壇なのだ。
火が命を生むなんて、奇妙な話ではあるが、無いことはない。
考えてみれば、命は火にたとえられるのだから。
だから、何も不思議な事ではない。
ばたばたと音がした。どうやら侵入者と認識されてしまったらしい。ウィルは濃紺色のマントを翻すと、そのまま入ってきた扉へと戻った。扉は彼を迎え入れ、ちょうど武器を持った守護兵たちが入ってくるのと入れ違いに、閉じた。
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