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【短編小説】回想、月の都より NUE

 回想、月の都より

                                                                                       NUE
 



   あれは忘れもしません。
 震災翌年の西暦一九二四年の夏のことでした。

 その日、私は浜の岩場で尻餅を着いておりました。
 地面から焼けた鉄板のような熱がお尻に伝わっていたはずなのに私はすっかりすくみ上って動けませんでした。
 犬よりも大きな生き物が目の前に横たわっていたのです。それも今まで見たこともないような。
 その生き物の腰から上は真珠のようにつるりとした真っ白い肌の女で、腰から下は艶々の分厚そうな皮膚をした海豚の脚でした。
 私が見つけてしまったその生き物は本で読んだ人魚の姿にそっくりそのままだったのです。
 大人を呼びに行こうとようやく思い立ったのは、人魚を見つけてから随分経ってのことでした。それまで私は怖気づいて息をひそめ、今にも人魚が動き出しやしないかとハラハラ睨んでおりました。
 でも長いこと人魚は動く気配をみせず、私はほっと一安心しました。
 そうして気を抜いて岩の上で立ち上がろうとしたら、あろうことか私は足を滑らせて人魚の目の前に落ちてしまったのです。
 慌てて逃げようとしたら膝を擦りむいてしまい、私はうめき声を上げました。
 すると、人魚が目を覚ましたのです。
 彼女は濡れた眼を見開いて、ほっぺたに砂を着けたまま私の顔をじっと見つめておりました。
 私は始め怖がって直視できませんでした。でも、すぐに目を逸らしている方が恐怖が大きいと気が付き人魚の顔を正面からまともに見たのです。
 あぁ……!
 その時の驚きを、私は今でもまるで昨日のことのように思い出せます。
 髪の毛はわかめみたいに長く伸びていたけれど、顔の面影は去年のままでしたから。
 だけど、その人魚は私の方をまるで他人を見るような目つきで見つめてくるばかりでした。
 私は悲しくて泣きました。人魚にしてみれば私など違う生き物の子供に過ぎないのですが、私にとってはその顔を持つ人魚を、もう違う生き物などと思うことは出来ません。
 それで私は声を掛けたのです。
「寧々ちゃん」
 と。

 
 * *
 

 人魚を見つけた日、私はいつものように七里ガ浜の浜辺を歩いていました。
 潮の音を聞くともなしにとぼとぼと、傾いた日差しの眩しさに目を細めながら足元の砂ばかりをじろじろ睨んでいました。
 その年に入学した高等小学校には少しも馴染めず、夏休みになってからは宿題もせずに毎日一人で浜に行っておりました。
 昼間の日差しで焼かれた砂は恐ろしく熱かったはずですが、私はいつもみすぼらしい草履一つで歩いていました。

 じりじり。
 陽に焼かれる痛みも。
 はらはら。
 落ちる汗と涙の雫が消える様も。

 全てが灰色でした。

 その年は寧々ちゃんの居ない初めての夏でした。
「今年は一緒に灯篭を流そうね」
 お母さんが近頃しきりにそう言うのが、嫌で堪りませんでした。
「海に流された人たちも、お盆になれば帰ってくるから……」
 寧々ちゃんの家はこの海沿いにありました。
 寧々ちゃんは漁師の娘でした。
 冬でも日に焼けているような褐色の肌が印象的で。
 一緒に通っていた小学校では男子たちよりも頭一つ分背が高く、かけっこや泳ぎが誰よりも得意な子でした。
 それに比べて私は運動の全てが苦手で、人並みに出来た試しがありません。
 だからいつも本ばかりを読んでいるような、そんないかにもお嫁には行けなそうな女の子でした。
 だけど、私たちは親友でした。
 だって寧々ちゃんも本が大好きだったんですもの。
 私たちの趣味は正反対で、私がアンデルセン童話のような物語に夢中になっているのに、寧々ちゃんは『赤い蝋燭と人魚』のような暗いお話が好みでした。それにも拘らず私たちはお互いをとても大切に思っておりました。
 他の子たちは稼業や勉強の忙しさで読書に拘泥する暇などないようでしたので、私たちは毎日のように昨日読んだ図書棚の本の話ばかりしていたのです。
 ……今思い返してみても、あの日々以上に私が世界に色を感じていた時はなかったと言えます。
 それだけ、私には本と寧々ちゃんが大事でした。
 でも、あの震災……関東大地震が全てを壊してしまいました。
 私の家は潰れ、両親と共に命からがら避難することは出来ましたが、財産は全て燃えてしまいました。
 だけど、それだけで済んだのは幸運な方だったのです。
 浜辺はもっと悲惨でした。
 津波が押し寄せた漁村は家屋が全部流され、寧々ちゃんの一家も海に呑まれたのです。
 それ以来、寧々ちゃんも、その家族も、誰も会うことはありませんでした。
 死んだ。とは、誰も口にしませんでした。
 大人も子供も、皆まるで死んだ人なんて最初から居なかったみたいに、還ってこなかった人たちの話を一切しなくなってしまいました。
 今にして思えば、皆そうすることで……想像もつかないような恐ろしい記憶に蓋をすることで、どうにか正気を保っていたのでしょう。もしくは、日常を。
 でも、私は不器用でしたから、日常には帰れなかったのです。
 母方の祖父のおかげで移住先とお父さんの仕事がすぐに見つかり、そのおかげで私は次の年には何もなかったかのように高等小学校に進学しました。
 だけど、それからはずっと毎日浜辺に通い続けました。
 私は皆のようにはなれませんでした。
 忘れることも忘れたふりをし続けることもできませんでした。
 だから、探したんです。
 寧々ちゃんを。
 寧々ちゃんの気配のする痕跡を。
 寧々ちゃんが踏んだ砂のひとかけらだけでも、そうと確信が持てる何某かを。
 彼女がこの地上に存在したであろう一握の証を。
 そうして、見つけたのが人魚だったのです。

 
 * *
 

「寧々ちゃん」
 私が泣きながら声を掛けると、人魚は怪訝な顔つきをしながら私の顔を覗き込んできました。
 寧々ちゃんとよく似た眉毛が八の字になり、海豚の尻尾が天に向かってピンっと伸びておりました。
 ぬるりと光る腹で立ち上がったその姿はやはり人間とは似ても似つかず。
「……じゃ、ないんだね」
 私はその場にへたり込みました。
 最早恐怖も感じてはおりませんでした。
 目の前に人魚が居るという現実よりも、寧々ちゃんはやっぱりもう居ないのだという現実の方が余程辛かったのです。
 暑さにも耐えかねて俯くと、真っ白い砂浜の上に自分の黒い影が映えていました。
 とてもみすぼらしい形をしておりました。
 血で零れた砂も、カラカラに乾いておりました。
 涙だけが、まだ濡れておりました。
「ちげえ。真魚だ」
 ふいに聞こえた声に、私はぎょっとしました。その声は明らかに目の前の人魚の口から発せられたのです。
 おそるおそる前を向くと、彼女は少し不機嫌そうな表情で海星のように紅い唇を開けて、もう一度名乗りました。
「あたしの名前は、真魚だ」
 まるで貝殻を耳に宛がっているかのように、彼女の声は奇妙にくぐもって聴こえました。
 ちょうどそのとき、風が強く吹いたのです。
 今思い返せば、それが一つの運命の曲がり角でした。
 なぜなら、おかげで私の叫び声は風と波の音にさらわれて、磯で仕事をしている大人たちに気付かれずに済んだのですから。
 甲高い声で叫ぶと、真魚はぐいっと手を伸ばして私の口を無理やり塞ぎ込みました。
「このあんぽんたん! 大声を出すんじゃねえ!」
 ぷんっと、潮の匂いが鼻いっぱいに広がりました。堪らない匂いでした。
「くさっ! 触らないで!」
「あぁん!? ……おめえさんこそ、獣の匂いぷんぷんさせてるだろうが!」
 真魚は清廉な見た目に反して随分と男じみた口調をしました。
 それが私にはとても不快に聴こえました。真魚の声はやはり寧々ちゃんに瓜二つだったのです。でも、寧々ちゃんはこんな傾奇者みたいな喋り方はしません。本当の寧々ちゃんはいつも大人しくて、笑っているとき以外はまるでこそこそ話をするように小声で話していたのです。
 その声が好きだったのです。
「やめて! 寧々ちゃんはそんな話し方しなかった!」
「だぁから、寧々ちゃんじゃねえよ。あたしゃ真魚だ」
「やめて! マナなんて変な名前じゃないよ!」
「おめえ、文句も大概にしやがれってんだ! 海ン中でイサナの餌にでもなりてえか!?」
 私は口を噤みました。
 存外、彼女の力が強かったのもありますが、何より怒鳴った拍子に見えた真魚の八重歯が恐ろしく尖って見えたのです。
「ようし、ようやく静かんなった……ったく、あたしとしたことが陸の人間に見つかるなんてしくじったなァ」
 黙ると、頭からすうっと血の気が引いて冷静になれました。すると、恐怖や戸惑いよりも目の前にいる不可思議な生き物への興味が強く沸き起こったのです。
「……あなたは、やっぱり人魚なの?」
「あん? なんだそりゃ?」
 真魚は首を直角に傾げました。
「じゃあ、あなたは……あなたは、何人? 何処の人?」
「何処って……あたしゃ竜宮のもんだ」
「り、りゅうぐう……!」
「知ってるか?」
「知ってるというか……御伽噺で、読んだ」
「はあ!? ……んだよ、話がちげえじゃねえか。道理で遣いも何もいねえわけだ」
「遣い?」
「ちっ!」
 真魚はそれはそれは下品な顔で舌打ちをしました。美人が台無しなんてものじゃあございません。
「あたしは竜宮の巫女。海神に仕える召使だよ」
「わだ、つみ? ……え、これってやっぱり夢?」
「現実だよ。よく見ろ陸のガキ」
 言われなくとも分かっておりました。目の前の出来事は間違うことなき現実です。けっして夢などではございませんでした。
「真魚……さん、は、ここで何をしているの?」
「水先案内だ」
「案内? どこに?」
 真魚はにやっと笑いました。八重歯がぎらっと光りました。
「根堅州国」
「どこ、それ?」
「黄泉比良坂の向こう側だよ。あたしはこの海で彷徨う魂を出雲に誘うためにわざわざ陸に上がってきたのよ」
 私はそのお話を知っていました。
 黄泉比良坂は日本神話に出てくる黄泉の世界と現世を繋ぐ一本道です。つまり、根堅州国とはあの世のことです。
「一年前の大波でいきなり大量の人間が死んだだろ? おかげで海底が人間たちの魂で大混雑しちまったからこうして案内人が必要になったんだ」
 そのとき、私の脳裏に閃いたのは、寧々ちゃんの顔でした。目の前のガサツ人魚のそれではなく。
「ねぇ、それって寧々ちゃんも来るってこと?」
「寧々ちゃん? あぁ、さっき呟いてたやつな」
「友達、だったの……あと、顔があなたにそっくりで」
 私がそう言うと、真魚は一瞬驚いたように目を見開きました。
「そうかそいつはご愁傷様。この体はたまたま底に転がってたの見つけて拾ったんだ」
「ひろっ……た?」
「あぁ。見つけた中では上等な方だったからちょいと拝借したのさ。あたしらの本性は鰐だからな。陸に上がるにゃ陸の体が要るんだ」
 あまりのことに私は声を出せませんでした。
「さて、と。少し話し過ぎちまったな。そういうわけだから、明日の満月の夜はこの辺うろつくんじゃねえぞ」
「え……?」
「亡者に引っ張られてお前まで黄泉に連れられちまわァ……ゆめゆめ忘れるなよ」
 真魚はちょっと私の顔を一瞥してから、髪の毛を翻して背を向けました。ぷうんっと磯の香が鼻を打ちます。
「そんじゃぁな」
 真魚はそのまま海にまた戻っていきました。ぼそっと「昼寝してたら浜に打ち上げられるたぁなァ……」などと呟いて。
 彼女の姿が視界から消えると、後には波の音だけが残されました。
 暫くしてから、私は自分の頬をつねりました。
 とても痛くて、涙が出ました。

 
 * *
 

 その年の八月十五日の夜は満月でした。
 私の一家は、親類一同が介するお祖父様の別邸に集まり、一緒に宴会に興じておりました。
 さっきからお父さんはお祖父様にべったり。
 お母さんは親戚の女の人たちと肴の準備にてんてこまいしております。
「ささ、お義父さん。もう一杯お付き合いくださいな」
 お父さんがお祖父様の前で媚びた笑みを浮かべておりました。もう何杯目か分かりませんが、お祖父様はすっかり顔を赤くして酔っぱらっております。
「会社では順調かね?」
「ええ。近頃は仕事にも慣れて参りましたので、これからはさらに精進して働かせていただきます」
 毎日疲れた顔で帰ってくるくせに。
「おう。ならば精を出して働きたまえ」
「はい! こうして一家が路頭に迷わず済んでおりますのもお義父さんのおかげです。ご推薦してくださった御恩は必ずやお返しいたします」
 今日何度目かの台詞です。
「まぁ娘の夫が無職というのじゃ風体が悪いからなぁ」
「ええ、本当に助かりました」
「ところで、手形の件だが……」
 お祖父様の目が何やら脂っこい光を放ちました。
「はい。お義父様のご指示通りに四方から掻き集めました」
「そうか。では儂が預かろう」
「ありがとうございます」
「なぁに。礼なら政府に言うのが筋だぞ。儂らも震災手形で随分と負債を帳消しに出来たからな」
 お祖父様の口元に嫌らしい笑みが浮かんでおりました。
 夜風を入れる為に開け放たれた障子に月の光が煌々と照りつけております。
 それを見ているのは私だけで、この宴に集まった親類一同誰も美しい光には見向きもしませんでした。
「彦乃」
 ふとお母さんの声がしました。
 振り向くと、疲れの滲んだ表情で無理に笑みを浮かべようとする母の顔が見えました。
「もう遅いから、彦乃はそろそろお布団にお入りなさい。お酒の席は退屈でしょ」
「うん。でも、お線香を上げてないから仏間に行ってから眠るね」
「そうね。あちらにお帰りになるご先祖様をしっかりお見送りしなさい」
 そう言うと、お母さんはちらっとお父さんの方を見てから暗い廊下に消えていきました。
 私は一人で部屋を出ると、こっそりと裏口から外に飛び出しました。
 夏の夜の地面はまだ温かく、足袋一つで歩いても平気です。
 私は一目散に海を目指しました。
 徐々に高くなるお月様が道を明るく照らしてくれていたので、私は暗闇に道を間違えることもありませんでした。
 浜に到着すると、ぷうんっと磯の香りが強くなりました。

 見上げると空に雲はなく。
 湿り気を帯びた夜風には、さざ波の音が絶え間なく。
 そして真上にはお月様が輝いていて。

 海も砂浜も真っ白に染まっておりました。

 私は小舟を見つけてその中に隠れました。
 空を見上げたまま、じっとその中で待ちました。
 真魚が亡者を連れて現れるそのときを。
 真夏の夜は蒸し暑く、凍えることはありませんが、段々喉が乾いてまいります。おしっこもしたくなりました。でも、我慢しておりました。
 もうすぐ寧々ちゃんに会える。
 その一念で私は我慢できたのです。
 それからどれだけの時が流れたことでしょう。
 やがて、外が奇妙に明るいことに気が付きました。
 恐る恐る顔を舟の縁から覗かせると、外は青白い光に包まれておりました。
 明るい方へと顔を向けると、海から砂浜に向かい一直線に青い光が伸びておりました。
 よくよく目を凝らすと、それは一つ一つが青い松明の放つ幽けき輝きでした。
 蒼い炎が幾百万も集まり、行列を為しているのです。
 私は竦み上がりました。
 だって、それら全てが昨年亡くなった人たちの魂なのですよ。
 一体、どれだけの人たちが海や川で亡くなったというのでしょう。
 それでも私は寧々ちゃんに会うためにその行列に近付きました。
 近くに寄ると、うっすらと人の顔らしきものが一つ一つの松明の近くに浮かんでおります。
 皆、無表情で、まるで蝋人形を眺めているようでした。
 立ち止まっている私を気にするような亡者は居ませんでした。まるで、私などその辺に落ちている貝殻程にも感じてはいないようです。
 行列はゆっくりと進んでいきます。
 出雲がここからどれだけ遠くにあるのか見当もつきませんが、こんな速度で本当に辿り着けるのかと疑問が湧くほどに、行列はのんびりと動いております。
 私はそわそわしながら、列に並ぶ人たちの顔を順繰りに視ました。
 だけど、寧々ちゃんは何処にも見当たりません。
 夜風が徐々に冷たくなっていきます。
 なんだか、まるで彼らが現世の温度を奪っているかのようでした。彼らも歩くのにはエネルギーが要るのかもしれません。
 諦めたくないけれど、でも全然見つからないので私はがっくりと膝を折りました。
 いつもは眠る時間でもありましたので、疲労が睡魔を伴って私の体に圧し掛かっておりました。
 そのときでした。
「ひこ、の、ちゃん……」
 はっと顔を上げた私の前で、一つの松明が止まっておりました。
 その青い明かりに照らされた亡者の顔がゆっくりと夏の夜の空気に現われますと、ふいに虫の音が強く耳に響き渡り始めました。
 胸がどきどきと鳴っております。
 焦りと恐怖と、そして喜びとが綯交ぜになり、私の胸を青く焦がしておりました。
「ねね、ちゃん……?」
 立ち上がると、手を握られました。
 ぬるりとした感触の奥に、懐かしい肌の感覚がありました。
「彦乃ちゃん」
 そして、懐かしい声。
「寧々ちゃん」
 私は寧々ちゃんに抱き着きました。
 彼女は全身ずぶ濡れで、少しも体温を感じませんでしたが、それでも間違いありません。寧々ちゃんだったのです。
「どうして、ここに居るの?」
「寧々ちゃんに会いたくて、ずっと待ち伏せしていたの」
「そう、だったの……ごめんね、私、今こんな風になってるの」
「うん。でも構わないよ。だってまた会えたもん」
 寧々ちゃんは少し照れたように微笑を零しました。
「私も彦乃ちゃんに会いたかった。ずっと一人だったから……」
「おじさんとおばさんは?」
「分からない。あれから一度も会ってないよ」
 その言葉がぐっと胸に迫りました。
「ねぇ、彦乃ちゃん。私これから出雲に行くの」
「うん。知ってる」
「え?」
「昨日変な人魚に会って、教えてくれたの」
「そうだったんだ……あのさ、もし彦乃ちゃんが良ければ途中までついてきてくれない?」
 色の抜けた唇が寂しげに震えておりました。
「うん。いいよ」
「本当?」
「うん。だって、まだまだ話したりないもの。一年も会ってなかったんだよ」
「そう……ありがとう」
 私たちは手を繋ぎました。
 そして一緒に歩き出すと、不思議と足が軽くなりました。
 私たちは道すがら沢山お話しました。
 私は昨年の地震以来、お父さんもお母さんも仲が悪くなってしまったこととか、高等小学校にあまり馴染めていないこととか、そういうことを取り留めもなく話しました。
 寧々ちゃんはまた本が読みたいと言って悲しそうに俯いていました。根堅州国に貸本屋があったらいいねと言ったら、寧々ちゃんはちょっと微笑んで、私の手を強く握りました。
 そんな風に歩いていると、周りの景色がすっかり変わってしまっておりました。
 さっきまで砂浜を歩いていたはずなのに、そこは日本の何処かもわからない田んぼの畦道でした。
 空を見上げると、星が瞬いておりません。
 目を凝らしてよくよく見れば草木が風に揺れておりません。
 時が止まってしまっているかのようでした。
「彦乃ちゃん。あれが聴こえる?」
「え?」
 ふと耳を澄ますと、歌が聴こえました。
 滑らかな弦楽器を思わせる、不思議な歌です。人間の言葉ではない言葉で、誰かが艶やかな声で歌っております。
「前から聞こえる……」
「あれが聞こえたら、もうすぐ黄泉比良坂だよ」
 私はいきなり夢から覚めたようになって、はっとしました。
「ねの……かたすくに」
「そうだよ」
 寧々ちゃんの手が一段と強く私の手を握りました。体が勝手に震えだしました。ずっと聴こえていた虫の音がさらに大きく鳴り出しました。
 耳を押さえても、それは、
「寧々ちゃん……?」
 頭が痛い。そう思いました。だけど、足は止まりませんでした。
「まだ大丈夫。私が合図するから。ぎりぎりまで一緒に居ようよ」
 寧々ちゃんの冷たい吐息が耳に掛かりました。
 ――一緒に居ようよ。
 私は恐々しながら寧々ちゃんの目を見つめました。
 でも、彼女はただただ寂しそうな目で私を見つめ返すだけでした。
「うん……じゃあ、そこでお別れだね」
「うん」

 
 * *
 

 その大岩は崖に向かって倒れておりました。
 亡者たちの行列は岩が隠していた洞窟の入口に向かって続いております。歌声も今はくぐもって聴こえます。先頭に居るのはあの人魚でしょうか。
「さぁ行くよ、彦乃ちゃん」
「うん」
 入口を潜ると、そこは星の世界でした。正確には暗い洞窟の壁いっぱいに光る苔が大量にこびりついておりました。
「綺麗だね」
 私は見惚れながら、寧々ちゃんに体を預けました。なんだか力が入らないのです。
「ごめんね。疲れちゃったみたい……」
「いいよ、彦乃ちゃん。そのままでいいよ」
 岩に反響する歌声はますます高く美しく鳴り響き、私は夢見心地でした。
 地面は徐々に傾斜し、下り坂になっていきます。
「なんだか美味しそうな匂いがするよ、彦乃ちゃん」
「匂い?」
 私は鼻孔を広げて息を吸いました。
 だけど、何の匂いもしません。
「私は分かんない。何の匂い?」
「葡萄だよ。今まで嗅いだこともない……なんていい匂いなの」
 寧々ちゃんは恍惚とした表情を浮かべておりました。まるで別人のような。
「寧々ちゃん。そろそろ……」
「まだだよ」
「でも――」
「大丈夫だから。私を信じられないの?」
 寧々ちゃんは大きな声で言いました。
「そんなことない、けど」
「ねぇ。彦乃ちゃんも一緒にあの葡萄を食べようよ」
 そう言われて周りを見ると、確かに葡萄の生っている樹が何本も生えております。そして、亡者たちはその葡萄に手を伸ばして次々に口に運んでいました。
 背の高い寧々ちゃんは頭上に手を伸ばすと、一房もぎ取りました。そして涎を垂らしながら果実を一つ口に運びました。
「はぁ……」
 そんな言葉にならない声を漏らした寧々ちゃんは次から次へと葡萄を口に運んでいきます。
 すぐ目の前に葡萄があるのに、それでもその匂いは感じられませんでした。
「そんなに美味しいの、それ?」
「うん。こんなの生きていた頃にも味わったことないよ」
 そう言いながら、寧々ちゃんは食べる手を止めませんでした。やがて、果実が残り一つになると、寧々ちゃんはそれを私の手に握らせました。
「これは彦乃ちゃんの分だよ」
「いいの? 私が食べて」
「勿論。一つくらいなら罰なんて当たらないよ」
 私は鼻を近づけて匂いを嗅ぎました。やっぱり何も感じられません。その様子を、寧々ちゃんが熱のこもった目で見降ろしておりました。
「じゃあ、食べる。そうしたら……もうお別れしましょう」
「うん。そうだね」
 私はゆっくりと葡萄の皮を剥きました。中から碧い宝石のような実が現れますと、一気にその香りが体を包み込みました。
 たしかに、それはそれは香しい匂いでした。今までなぜ気が付かなかったのだろう。
 私は、強烈な空腹を覚えました。
 ごくん、と唾を飲んで、
「いただきます」
 その果実を唇に乗せました。
 すると、突然誰かに頭を叩かれました。
「いたっ!」
 葡萄の実は私の口から転げ落ちて地面の上で潰れてしまいました。
「このあんぽんたん。なに食おうとしてんだ」
 後ろを振り向くと、白い装束を身に纏った寧々ちゃんが立っていました。
「え、なにその恰好」
「ばか。あたしだあたし」
 その口調を聞いて、私はやっと目の前の人物が誰なのか分かりました。
「真魚……?」
「そうだよ」
 真魚の隣に寧々ちゃんが居りました。同じ顔が二つ。目の前にありました。
「なんで叩いたの? 痛いじゃない」
「痛いじゃない、じゃねぇよ。お前、今死にかけたんだぞ」
「えっ、どういう意味?」
 真魚はじろっと寧々ちゃんの顔を睨みました。
「こいつが食わせようとしたのは、黄泉の食いもんだ。そんなもん食ったら、二度と帰れなくなるぞ」
 寧々ちゃんは怯えた表情で私の顔を見ておりました。
 ちょうど私もそんな表情をしていたに違いありません。
「本当なの?」
 寧々ちゃんは何も言いませんでした。ただ悲しそうに泣いているだけでした。
「おまえの分はこれだ」
 真魚は片手を差し出しました。その手に桃の実が乗せられておりました。
 その瞬間、辺りに強烈な芳香が充満しました。寧々ちゃんは苦しそうに鼻を押えましたが、私はその匂いを嗅いだ途端に空腹が押さえきれなくなりました。
「こいつは生者には薬だが、死者は忌避するオオカムヅミ。こいつを食ってさっさと去ね」
 私は本能のままにその桃を受け取りました。
 真魚が満面の笑みを浮かべて頷きます。
 だけど、渾身の力を込めてそれを投げ捨てました。
「はァ!? おい、おまっ、この……馬鹿野郎ぉ!」
「そんなの要らない。私、寧々ちゃんといく」
「何言ってんだ、おめえは」
「だって、戻ったっていいこと何もないじゃない! 生きてたって面白いこと何にもないじゃない! あっちに寧々ちゃんはもう居ないじゃない!」
 私は叫ぶと、そこらの葡萄をもぎりました。
 本当は、分かっていたのです。黄泉戸喫のことも本を読んで知っておりました。私は分かっていて、かつて伊弉諾命が黄泉の追っ手に投げた葡萄を口にしようとしました。
「もういいの。これを食べて私もいくよ、根堅州国に」
 私が葡萄を噛み千切ろうとしたその時、真魚の手がぐんっと、思うよりも長く伸びて私の口を塞ぎました。葡萄はあられもない方向に吹っ飛んでいき、亡者に踏まれてぺしゃんこになってしまいました。
「帳尻ってもんがあらァ。今夜はお前の番じゃねえ。ガキが我儘言ってんじゃねえぞ」
 私は、必死に抗いました。だけど、真魚の力は大人みたいに強くて、その手を振りほどけませんでした。
 寧々ちゃんは、私の方に手を伸ばそうとしておりましたが、桃の香りがまだ強く残っているのかこちらに近寄れないようでした。
「おい、寧々とやら。体を借りておいて命令するのも何だがよぉ、さっさと逝け。生きてるもんを巻き込むな」
 真魚が睨むと、寧々ちゃんはびくっと肩を揺らしました。その顔に見る見る恐怖の色が浮かび上がってきます。
 そのとき、ふいに真魚の力が緩みました。一瞬だけ気を抜いたのでしょう。私はその油断を見逃さず咄嗟に真魚の指に噛み付きました。
「いてぇっ!」
 真魚の悲鳴が耳を劈きました。
 その瞬間、口の中に芳醇な香りが広がりました。
「うわっ! お前、あたしの血を――」
 なんと麗しい味だこと。私は期せずして真魚の血を舐めてしまったのです。
 それは、その後に飲んだどんな美酒さえ及びもつかぬ美味さでした。
 私は一気に酔っぱらったようになって、立っていることが出来なくなりました。
 視界がぐにゃりと歪んで、鼻から血がぽたぽたと垂れ始めました。
 私はそれでも寧々ちゃんを探しました。だけど、もう彼女の姿はどこにも……。
「やべえっ! あたしの血なんか飲――お前人間じゃ――まうぞ!」
 真魚が何かを叫んでおりました。だけど、その言葉の意味を理解する前に私の意識は途切れてしまいました。

 
 * *
 

 目を覚ますと、七里ガ浜の砂の上に寝かされておりました。
 月は雲に陰り、水平線が俄かに明るくなっております。
 隣には真魚があぐらをかいて座っておりました。
「お前、なんてことしやがるんだよ」
 起き上がろうとしたら、体に力が入りませんでした。頭がくらくらします。
「血を沢山吐いたんだ。しばらくは動けねえよ」
「……寧々ちゃん、は?」
「逝ったよ、あの世に」
「そう……」
 目尻を伝って、砂に涙が一粒、沁み込んでいきました。
「自分を騙すような奴に同情か?」
「だって、私が逆の立場でもきっとそうしたもの」
 真魚は大きな溜息を零しました。
「ったく。昼寝なんてするんじゃなかったよ」
「私、またひとりぼっちなんだ……」
「ああ、一生ひとりぼっちだ」
「え……?」
 真魚は私が噛み付いた手を見せました。
 そこには小さな歯型が赤い斑点で、まだ残っておりました。
「お前が口にしたあたしの血は、人間にとっちゃ妙薬さァ。一つ舐めれば仙人に。二つ舐めればあたしと同じ神の御遣い……人魚になれる代物だ。ま、三つ舐めればお陀仏様だけどな」
「せん、にん……?」
「お前はもう寿命じゃ死ねない。そういう体になっちまったのさァ」
「うそ」
「本当だよ。ったく、だから忠告したのによ」
 真魚は私の頬をぺちっと叩きました。全然痛くはありませんでした。
「ま、成っちまったもんは仕方がねえ。大人になるまでは人間と大して変わらないから暫くは普通にしてな」
 真魚は立ち上がると、背を向けました。
 見慣れたはずの背中が妙に凛々しく見えました。
「んじゃァな。あたしゃもう帰る。太陽は苦手だかんな」
「待って」
「あん?」
「最後に、あの歌を聞かせて」
「えー」
「いいじゃん。減るもんじゃないし……それにとっても綺麗だったよ」
 真魚はちょっと考えるようにしてから、ふと水平線を眺めました。
「お前、ほんとに馬鹿なことをしたな。あんなに死にたがってたのに、これからお前はどうするんだ?」
「分かんない……だけど、人間らしい生き方が出来ないんならいっそ何でもやってみようかな」
「何でも?」
 私は空を指さしました。
「まずは、あの月を目指そうかな」
 そうしたら、真魚は天空を見上げて、にやりと笑いました。
「そうかい。それじゃ輝夜姫によろしくな」
 真魚は金色に輝き始めた水面に向かって歩みだしました。さよならはありません。
 ただ、太陽が昇り切る直前まで、冷えた朝の空気を切り裂いて、波の音階に乗せて、美しい歌声が響き渡っておりました。
 数多の物語がそうであるように、やっぱり人魚は、最後には海に帰るのです。

 さて。
 私の長い話に付き合ってくださりありがとうございました。
 私がここで申し上げたかったのは、とどのつまり、私が月面に降り立つことになったのはただの偶然に過ぎなかった、という事です。
 私の人生は何もままなりませんでしたが、あのとき咄嗟に思い付いた願いがこんな風に叶うだなんてやっぱり夢にも思ってもいませんでした。
 ただ、それが良い事なのか悪い事なのかは、分かりませんね。
 でも、そんな体験ができるのもこうして長生きすればこそです。

 ――え? 最後なんだから別れの言葉の代わりに歌を歌ってください? 冗談はよしてくださいな。私は人魚じゃないんですから。
 
 では皆さま、これでお分かりになられましたね。

『八尾比丘尼回想録――静かの海市にて――』より一部を抜粋


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