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「尾瀬の玄関」福島・檜枝岐村で受け継がれるもの
福島県南会津郡檜枝岐村。
ここは福島県側の尾瀬の入り口に位置し、
大自然に囲まれたこの村には、
古くから村の人たちの娯楽として歌舞伎などの
文化が脈々と続いている。
――もともとそんなイメージはあったけれど
実情を知らない同村に行ってみたい…
ということで昨年のお盆、
ようやく訪れてみました。
村へ続く国道352号線を進むと、道沿いに道の駅や商店、墓地、「檜枝岐歌舞伎」と書かれたのぼり旗も見えてきた。
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通りを歩くと「歌舞伎の舞台 橋場のばんば」という文字、歌舞伎役者の写る目立つ看板と鳥居が目に入る。
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奥へ進むと茅葺き屋根の「檜枝岐の舞台」が。
向かいの小高いところに鎮守神社があり、舞台は神社の境内地にある。
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江戸時代の建設だが明治期に焼失、再建された。
国の重要有形民俗文化財である
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こんな趣深い茅葺きの舞台で歌舞伎が行われているとは知らなかった。
まるで和風コロッセオといった風情。
舞台の手前にある「歌舞伎伝承館 千葉之家」に立ち寄った。ここで運良く、檜枝岐歌舞伎の上演を行う「千葉之家花駒座」座長・星文昭さんと
お会いでき、案内してくれた。
檜枝岐歌舞伎のこと
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さて、同館の展示や星さんの説明による「檜枝岐歌舞伎」のことを簡単にまとめてみよう。
「檜枝岐歌舞伎」は檜枝岐村の村人によって脈々と受け継がれている伝統歌舞伎で、平成11年には福島県の重要無形民俗文化財と
なった。
そのはじまりは江戸時代後期、村人がお伊勢参りに出た際”上方や江戸で見聞きした歌舞伎を広めたこと”といわれるが、実際には明確な記録はなく、”村の特産品であった木材の出荷時に街道で見聞き”したり”江戸から巡業に来た役者から教わった”りして同村に根付いたのだろう、とされる。
もともと江戸時代の会津城下は歌舞伎が盛んで、今や檜枝岐歌舞伎だけになってしまったが、奥会津地方にはたくさんの農村舞台と歌舞伎一座があり、地芝居が流行っていたそうだ。
星さんは「山深い奥会津の人たちにとって唯一の娯楽、楽しみだったのでしょう」と話す。
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現在、星さん率いる「千葉之家花駒座」は設立100周年を迎え、変わらず、村人たちが座員として練習に励んでいるそうだ。
その成果は、先に見て回った村の中心にある鎮守神社の境内にある舞台で、
「奉納歌舞伎」として年2回(5・8月)と、
「歌舞伎の夕べ」を年1回行っている。
これらを観劇しようと、全国からはるばる人が集まり会場は埋め尽くされるのだ。
⭐︎5月12日:愛宕神祭礼(防火・病災排除、五穀豊穣祈願)
⭐︎8月18日:鎮守神祭礼(会津駒ヶ岳・燧ヶ岳を神として祀る鎮守神社へ、すべての神への感謝を捧げる)
⭐︎9月の第一土曜日:歌舞伎の夕べ
ちょうどこの日は8月17日、奉納歌舞伎の前日でした。(ありがとうございました。)
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檜枝岐村の星家・橘家・平野家
さて、伝承館を見学する中で、隅っこに貼られたとあるプリントが気になった。
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日本四大姓とは、源、平、藤原、橘の4つと言われ、奈良時代から平安時代にかけて公卿になることの出来る名門の姓とされていました。
檜枝岐には、平野、星、橘の3つの姓が非常に多いと言われています。平野家は平(たいらの)が転じたもの(檜枝岐は平家落人部落という伝説もあります。)、星家の姓は藤原金晴が住み着いたのが始まりで、星の里の地名をとって「星」と言い、藤原の流れを汲むものと言われています(家紋は九曜日 星)。また、橘は、永禄12年(1,569年)、織田信長に攻略された治田城主、楠郎左衛門正具(たちばなまさとも)の次男、楠助兵衛橘好正が落ち延びて来てからとされています(家紋は御前橘)。なお、この楠助兵衛橘好正は、楠正成の9代目の孫に当たると言われています。
このことから檜枝岐には、日本の四大姓のうち、3つが集まっていることになります。
座長の星さんも、「檜枝岐村は星姓、橘姓、平野姓が多い」と話していた。このプリントによると、日本の四大姓のうち3つが集まるとある。
平氏の落人伝説やら楠正成の9代目の孫の存在…こちらも調べたりしたらおもしろそうだけど。(今はやめておきます)
伝承館をあとにし、冒頭で述べた街道沿いに連なる墓所を見てみると、名前は確かに、3つの姓ばかり。
お盆の最中なので、線香をあげに来てる方々もそのご一族なのかな、と思う。
最後に、すこし歩いてみました。
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探検していくと、星家や平野家の先祖の墓なるものも案内板とともに発見。(この日橘家は見つけられず)
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平野家先祖 平右衛門の墓
江戸時代、檜枝岐村駒ヶ岳山系には「ハイタカ」と呼ばれる小型の際が生息しており、村では毎年、感の児を殿様に献上することとなっていた。当時、平右衛門は肝煎(名主)であったが、ある年どうしても鷹の児を取ることができなかった。すると二人の村人が「名主はわざと鷹の児を取らなかった」と代官様へ訴えたため、平右衛門は村氏の代表として皆松の牢獄に入れられ方治3年(1660)に牢死したという。正面には「南無阿弥陀仏」と刻まれ法号はない。左側面には「平野平衛門」の刻。
名かあるが年号等は判読不明である。
檜枝岐村
星家先祖の墓 (虫歯様)
星家第4代星越後守吉邦(1633没)の墓であるが、村人からは「虫歯様」と呼ばれている。この墓の下手にある桂の木に「奥州仙台安保原地蔵、口中一切ン病」と紙の表に書き、裏には願主の年齢と性別を書いた札を下げると、口中の一切の病気にならず、虫歯の痛みも治るという信仰があった。今でもお盆になると多くの線香があげられ、頭を垂れている村人の姿が見られる。
檜枝岐村
案内板には、平野家や星家の先祖にまつわる伝承が記してあり、星家にいたっては4代目の墓が「虫歯様」と呼ばれて民間信仰になっている。おもしろい。
墓所や案内板を眺めながら歩くと、この村に3つの姓が続いてきたのだとよくわかる。
地方の一つの集落に同じ苗字が多いことはよくあること。ただ檜枝岐村は他所とは少し違う感じがした。情報が外に向いているというか。
街道沿いには、ほかにも村にまつわる痕跡がピックアップされていて明示されている。
探訪者に村の魅力が伝わるよう工夫されているので、ゆっくりと歩いてみることをおすすめしたい。
檜枝岐の盆
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村の温泉からあがると、すっかり日も暮れていて、学校の校庭では盆踊り大会が行われていました。
会場はネットで囲われていて入場は受付を通るので、村の部外者である私は遠慮して外から眺めていた。
櫓に歌い手がいて、この村の民謡なのか(調べてもこの歌は出てこない)、力強く歌い上げていた。これがとにもかくにも素晴らしく、目尻からツーと涙が流れそうになる。
村の人々がすこしずつ集まって櫓を囲んで踊りだす光景を、外から眺める。するとこの村での暮らしや文化が、受け継がれてきたこと、そして外へも伝えられてきたことが思い出される。
しかしこの時間は、村の人たちだけの純粋で特別なものだろう。そっとそっと大切にしたい気持ちになった、檜枝岐の盆の夜でした。
少しセンチメンタルな終わり方なのだけど、
今回はここまで。ありがとうございました。