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【劇評】ガラスの動物園/消えなさいローラ(COCOON PRODUCTION)

2023/11/11,12,19
紀伊国屋ホール

3回分和田琢磨さんの回を鑑賞。

なんだか余計な事もいっぱい書いてしまったように思うが、2023年11月20日現在の自分の考えたことをそのまんま形に残し、近い将来「あ〜未熟だな〜」なんて振り返る材料にしたい。

ガラスの動物園

●演出・音楽・光について

①演出について

とにかく画面が美しく、どこも絵になった。

戯曲を読んだときにあまりにも儚く繊細な美しさのある世界に「これを舞台で再現できるんだろうか」と不安にすらなったが、見事想像を越えてくるすてきな演出だったと思う。

カラフルなガラス細工のようで、アメリカンコメディのポップなテイストもありつつ、タンゴの情熱をまじえ……長丁場の会話劇なのに、飽きずに見続けられる魅力的な舞台だった。

②音楽について

そして、ガラスの動物園も、消えなさいローラもとにかく音楽がすごくいい!音楽がとっても丁寧な仕事をされているな〜〜と喜んでいたら、音楽監督の方が解説ノートを出してくださった!!やったー!(全6回とのこと、贅沢すぎる)

▼音楽監督の方の音楽解説ノートはこちら

ガラスの動物園はトムが語る家族の話なのだが、それがより顕著になるように演出されているところが大好き。トムが音楽キャストを3人連れて楽譜を配り、客席に向かって語るところからこの劇は始まる。

劇中ではトムが「トム」「語り手」のどちらにもなり、「語り手」としてのトムは、切ない表情で家族を見つめ黙する。そしてその場その場にあった音楽を指揮するのである。

基本的に音楽キャストは舞台の上手側に控えているのだが、時折舞台中央に出てくる。語り手としてのトムは物語の外側から内側へ手を伸ばし、アマンダに水を与えたり、帽子をとってあげたりする。

この、物語の内と外、あるいはトム自身の過去と現在が自在に行き来する演出が面白く、見ていてワクワクした。

③光について

さらに、終始「光」が美しすぎてたまらない気持ちだった。

ガラスの動物園も消えなさいローラも、灯火が一つの重大なキーになってくる話であるが、照明の光や蝋燭の光が印象的な舞台であったと思う。

戯曲を読んだ時は、ポスターの印象も相まって、柔らかく細い光の束がゆらめくようなものを想像していたが、実際に舞台を見ると、想像とは裏腹にカラフルな光が万華鏡のように辺りを照らしていた。

意外な気持ちもあったが、すぐに腑に落ちた。

1930年当時のアメリカ、ウィングフィールド家のすぐそばにあるダンスホール、ローラが大好きだったあのペンザンスの海賊…それらを思い起こした時に出てくる光というのは、あのようなカラフルさが一番似合うだろう。

あの色鮮やかなライトが描きだす舞台は、語り手トムの切ない表情と共に、ウィングフィールド家の二度と戻らない美しく儚い過去への憧憬と後悔と懺悔が見事に出ていたように思う。

蝋燭の火は、何かローラ自身の心の灯火、つまりは希望のようなものを象徴しているように思える。だからこそ、その灯火を消してしまわなければならないのが苦しく感じるのだが……

ジムとの楽しいひとときには多くの蝋燭が立ち並ぶ。あたりは停電で真っ暗だが、その分小さな蝋燭の火がよく見え、幻想的な空間となっている。

ローラの灯す小さな光に比べ、世の中のネオンライトや稲妻の光は強すぎたのかもしれないと思った。強い光の中で暮らす人にとって、小さな小さな光を大切に灯している人はどうも片隅に目に入ってしょうがない。その灯火を消してくれさえすれば、トムは心置きなく強い光の中で飛び回って暮らしていけるのに。

そうしたほんの少しの灯火が、家を出ていったトムを苦しめ続けたのだろうと思う。

●ジムについて

戯曲を読んだ時、正直ジムという人物が若干苦手だった。それが舞台でわだくまさんが演じているジムを見て、その印象が吹き飛んだ。これが、わだくまさんの純朴さが滲み出ている効果なのだろうか。

なんにせよ、同じ状況同じ言葉だとしても、人の動作や振る舞いなどでいくらでも伝わり方って変わってくるんだろうなと思った。また、同じ言葉、同じ振る舞いだとしても、見る人によって、見るタイミングによって無限に見え方が変わってくる。

だから、人間同士のコミュニケーションや暮らしには正解がない一方で、その全てが正解であり真実なんだろうなとか、そういうことを考えた。

まあそういう考えがキレイゴトの日和見主義だという自覚もあるのだが……物語を通して「この人はいい人だな」とか「この人は嫌だな」とか「この人は本当はこういう人なんだろうか」とかいう深読みを繰り返しているうちに、嫌になってしまった。自分は他人を裁けるような人間ではなかった。

だから結局、私はジムのことも好きだと思いたい。

消えなさいローラ

わだくまのローラ役がどんな感じなのか全く想像がつかなかったが、想像以上に可愛く、シュールにコメディに仕上がっており、かつ終わりへの丁寧な盛り上げ方が好きだ。

戯曲を読んだ時にはとにかく救いがない印象だったが、芝居に落とし込むとこうも見え方が変わるのかと。非常に面白かった。わだくま回しか見てないので、他の回も見たいな……是非円盤に………

●演出について

消えなさいローラのはじめのシーンがとにかくめちゃくちゃめちゃくちゃ好き。

ガラスの動物園で流れていた音楽が錆付き、乱れ、戦争の音が混ざりどんどん荒れて、警報なのか耳鳴りのような音が空間を支配したと思ったらぶつんと途切れ暗転。からの女(わだくま)が持つ蝋燭の灯が舞台後方からゆらりと1つあらわれる.......。カッコイイ〜〜〜

格好良すぎて、初見のとき暗闇で天を仰いでいた。こういう緩急の極みみたいな演出がだいすき。

●わだくまさんの演技について

好き。まずちゃんとローラの格好が似合っててすごい。でもデカさが隠せてない。可愛い。仕草がちゃんと女の人ですごかったなぁ。

わだくまさんの「台詞における間合いの上手さ」というのが光りに光ってて、すごく見てて心地の良いテンポ感だった。

すこしシュールなコント感もあり、カミシモで漫才やった経験がもしかして意外なところで活きてきてるんじゃないか?

葬儀屋がお茶を飲むのを見つめるシーンと、私そそっかしいんですと言いながら何度もお茶を入れ直すシーンが特に好き。

●作品について

ローラの姿とアマンダ(母)の姿が入れ違うさなかで、時折ジムのような動作も混ざる。見てるこっちは誰が誰なんだが何が真実で真実じゃないんだか分からなくなる、でもその分からなさも良いなと思った。

シュルレアリスムというような世界観だろうか……色々な解釈があると思うが(Xで検索するといろんな解釈があって面白い)、私には主に2つの見方が同時にできるように思えたので、以下に記載する。

①女=ローラとして見る

そのまんま、女をローラとして見る解釈。

トムが家を出て行ってからずっとウィングフィールド家の時は止まり、ローラはロボトミー手術を受け、やがて母も死に、今は一人でずっと帰らぬ「トム」を待ち続けている。

一人でずっと過ごしていると、自分が誰なんだかわからなくなってくる。誰も自分の名前を呼ばないからだ。だからローラはひとりで「ローラ!」「はい」と名前を呼び、呼ばれる必要があるのだ。自分という存在が、他者から認識されてはじめて成立するということがよく分かる。

あまり、ローラのことを気が狂っているとか、そういう風には思わなかった。私もこの世界で自分一人しかいなかったら、自分が誰なんだか、本当にいるんだか分からなくなり、同じことをすると思えた。何より一人きりじゃ寂しいし。

また、トムが出ていったローラには「待つ」ことしか残されていない。学校も退学、仕事もせず結婚もできず、ローラにはもう「待つ」ことしか残っていない。だからローラはそれを懸命に、自分に与えられた「待つ」ということを一生懸命やる必要があった。

一生懸命やるというのは、それだけに集中してやるということだ。だから「待つ」を一生懸命やるには、「待つ」以外何もしてはいけない。一生懸命何もしないでいるには、ローラの母のような、一生懸命やらせ続ける存在が必要だった。ローラはそれに抵抗し続けるだけで「何もしないで待つ」をすることができる。

「母」という存在は、ローラの存在を確認し、そしてトムを待ち続けることに必要な存在だった。

それを葬儀屋のような外部の存在がとやかく介入して何かを言えるんだろうか……

トムはもう死んでいるんだからもう待たなくていい、という真実は、ローラに必要なんだろうか?

ローラに必要な「母」という幻影も、「トムを待つ」という希望もとりあげ暴いて、それでいいんだろうか……

という、釈然としない気持ちになるのがこの解釈。

②女=トムを待つ存在として見る

女はローラという特定の存在ではなく、トムを待つ人たちという象徴的な存在として見る解釈。

トムを待つ人たちというのは「ローラ」「アマンダ(母)」「ジム」の3人。

あの空間全体がトムの意識の中のようなもので、だからすべてが、トムが出ていったあの日から1日たりとも時が進んでいないのではないか。

あちこちを彷徨うなかでいつもトムを待つ存在が、背後で小さな灯火をともしており、それが頭から離れない。

だからローラやアマンダやジムが代わる代わる姿を表す。

降り積もる砂というのは、トムの記憶の中にいる「待つ存在」がどんどん風化し砂に埋もれていくことの示唆に思える。

「消えなさいローラ」は別役実が「ガラスの動物園」の後日談として書いた本である。

家族を、ローラを捨てて家を出たというトムの後悔、彼を支配する灯火(彼を待つ存在として頭から離れない幻影)を消してしまいなさいという、そういう救いの話なのではないか。

③女=ジムとして見る

この解釈は全く当初自分の中で想定していなかったのだが、演出をした渡辺えりさんがそういう意図をもって作ったらしく、かなり頭を悩ませた。

ゲイであったテネシーの投影であるトムをゲイとして扱うのであれば分かるのだが、ジムもそうだとは全く思わず……

レインボーフラッグがLGBTの象徴となるのは1970年代なので、時代的にもおかしいような気もするが、とにかくジムがゲイとしてトムをずっとずっと待っていたと見る。しかも80年間。

80年といえば戯曲執筆当時から今日に至るまでの年数だが、ジムはもちろんトムもローラもアマンダももう死んでいるだろう。「すこしホラーっぽいイメージ」というのはそういうことなんだろうなと。

舞台後方でローラとアマンダが二人で寄り添ったまま骸骨になる姿が映し出されるが、つまり、ジムは亡霊になっても未だトムを待ち続けている。ずっとずっと。

ここで、ジムが待ち続けているのはトムなんだろうか?と疑問が出てきた。ジムは、自分たちのような人が生きやすくなる世の中を待っているんじゃないかなと。

近年急速にLGBTへの理解は深まってきたように思えるが、まだ、その途上と言わざるを得ない。戦争が終わっても、依然ひとびとの戦いは終わらない。「待つ」ということは難しくつらいことだけれども、それでも、平和だとか喜びだとか自由だとか待ち続けなければならない。

演出をされた渡辺えりさんは、そういうことを伝えたかったのかなと思った。

その他

●別役作品と非喜劇について

消えなさいローラが想定以上に良かったことで、観劇後に「別役実…」という気持ちになり、パンフレットで少し触れられていた別役実の「不思議の国のアリス」を読んだりした。また、たまたま目に入った「別役実のコント教室」を読んでみた。(これは別役実がコント作家の作品を集めた本である。面白い。)

別役氏の描く世界にざっくりとしか触れていないが、今なんとなく頭に思い浮かぶのは「悲劇と喜劇は表裏一体だ」ということである。

人間が懸命に生きる様をそのまま舞台にのせることが演劇であるのなら、それはいつでも悲劇であり喜劇である。

なんにせよ人間のその一生懸命で滑稽な様というのは、おかしくて笑えてかなしい。そう思うと悲劇と喜劇というのは裏表の存在であり、なんだかそんな懸命な人間全体をうっすらと愛おしく思えてくるものだ。

●さようなら世界夫人よ

客入れ客出しの時に流れている「さようなら世界夫人よ」の曲が頭から離れない。これは1944年にヘルマン・ヘッセが書いた詩に、その後日本人がメロディーをつけた歌なのだそうだ。

ドイツ生まれのヘルマン・ヘッセがどんな思いでこの詩を書いたのかと思うと、胸をつまされる気持ちにもなる。

世界はがらくたの中に横たわり
かつてはとても愛していたのに

戯曲を読んだ時にはあまり感じなかったが、今回渡辺えりさんの演出は終始「非戦」への願いを強烈に感じるものだった。

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