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note書く書く。

最近ずっと療養中であったけど、そろそろ"求人に応募する“と言う行為ができるようになってきた。
そして、面接で必ず聞かれる(かも知れない)自分の客観的評価について考えていた。
以下、頭の中の展開図。

「ご自身の性格についてどのように思っていますか?」
「私という人間は、二つの側面があります。タカを括って結果に唖然とする自分と、極端なほどの杞憂の数々を繰り広げている自分です。」
「なるほど。。とても面白いですが、どちらも心配ですね。」
「はい。別の言葉に例えるなら、危うい、愚か者、見本にならない大人、といった所でしょうか。」
「(不採用)。」

模範解答しか求めない職場には応募しない。
もし自分がお金に困っていないなら、どこでどんな仕事をしたいだろうか?
もし私が会社を作るなら、好きなことしか“してはいけない”会社にしようと思ったことがある。
それを発信する事で、お金以外の利益を得る努力を社員全員が求めるような会社。
売り上げは微々たるもので、エネルギーのとてつもない会社。
だけど、そんな見本にならない会社は不要な世の中でもあるのでただ消え去った展開図。

そのような会社を見たことはあるけれど、結局はフォロワーありきなのだ。
常に何かに縛られてしまう。
それは、世の理がエネルギー等価で成り立っているからだ。
私達は消費して食って排出し続けなければ生きていけない。
人と関わって常に”何か”を交換し続けなければならない。
お金、物、情報、権利、人気、人脈。
コロナで私は知ってしまった。
不要な関係性について。
でも、大人は誰もがそうだ。
何もせず、ただ空を眺めて、思いついた言葉だけを一方的に吐き出していた10代特有の関係性は永遠に訪れない。
そのように見える関係でも、やっぱり何かが違うし、何かに縛られている。
それが大人だ。
異春期の縛りとは虚想でしかない。
私は自由を求めて思いつくままに生きてきたけど、今手にしているものは全て価値がある。
どの傷も、心の怪我や後遺症も、失ったものも、残ったものも。
今の私だからこそ訪れる変化がある。
見える景色がある。
一人一人に見える景色があり、一人一人に与えられるものは違う。
だけど、全てに言えるのは、愛こそが全てだ。
その上に成り立たないものはない。

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