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愛はひとつじゃない話


なぜ人は嫉妬するのか

嫉妬は良くない、と思う人は多い。
ほとんどの人は何度も嫉妬を経験していて、時にはそれを正しいとか、嫉妬させられているように感じる場合もある。
嫉妬は、自己が危ぶまれる時に起こる。
自己が危ぶまれる感覚は、相手を信じていない事から生まれる。
相手を信じていないという事は、まず自分の相手への愛が本物かどうかを探る必要がある。
相手を所有している感覚でいる時、相手の関心が他者へ逸れると自尊心が傷つく。
許せない気持ちになって、相手由来でそんな気持ちにさせられていると感じる。
でも、自分が嫉妬しているという事に変わりはない。

人は自分でも思っている以上に、あるいは無意識に、
自分に対して、相手はどうあるべきか、信頼に足るべき存在かを判定している。
愛とはこうあるべきで、それを共有するからにはこうでなければならない。
約束したのだから、守らなければならない。
約束していなくても、友情であれ、恋愛であれ、家族であれ、
自分の中の愛情が不足していると、想定通りの愛が注がれなければ、
自己が危ぶまれ、相手をつい憎もうとする。
理性で自分を諌めても、やはり愛が不足していて、望む形の愛情を求めてしまう。
それは利己愛に他ならない。


約束した以上、それを守っていくのは互いの務めで、それを自分は破っていないのに、
相手はなぜ破ったのか。
それを責める権利は自分にある。

破られたのは自分、責めるのも自分という構図になる。
そして理由を探る。
自分への愛が冷めたからかもしれないし、ただ単にもう一つの愛が生まれたからかもしれない。
それでもいいよ、と思う選択肢はなかなか持てない。
自分の愛の持って行き場について、どうしてくれるのかと相手に迫ろうとする。
これまでの愛について、責任をとってくれと思うようになる。
そこに相手への愛はどのくらい入ってるんだろう。
どれが本物で、どれが思い込みなんだろう。

相手が利己的に離れていって、自分へ1ミリも顧みない愛だったとしも、
自分の中にある愛が本物なら、それをも受容できるのが愛だと思う反面、
それができなかったからといって、愛じゃないとも言い切れない。

愛は理屈じゃなく、同時多発的に生まれる美しいものだと思う。
それを体験していなければ、どんなにもがいても答えを探るのは難しいかも知れない。
目にしている周囲の愛模様の中にも、恐らく見つけられない。
自分には周りのような愛が得られていない、あるいは周りのような不実な状況に自分も陥っていると考えるようになる。
嫉妬に塗れて、相手を憎んで時間は進んでいく。

結婚してるか、してないかは、あまり関係ない

本当の愛を知るまで、私にはわからなかった。
何人も付き合って、何人とも約束をして、結局誰ともそうはならなかった。
それでよかったと思う人ばかりだった。
それは、何かあったら、自分は相手を責めただろうという意味で。
愛しているようで、実際はそこまで達していなかったのだとわかった。
尊かった気持ちは今も変わることなく、人生の一部を彩ってくれた貴重な経験だけれど、
再びその人たちと再出発したいかと言われても答えは変わらない。
その人たちとの愛はもう充分に完了しているから、思い出の箱の中に美しく収まっている。


結婚が素晴らしいのは、相手が運命の人じゃなくても、
友情のように互いを認め合いさえすれば、
現実的に資産や生活を共にする事が可能な点だと思う。
そこにも沢山の愛があって、平和を育むという美しい時間がある。
性別も国も生い立ちも関係ない、小さな理想郷。
たとえ壊れたって、やり直しさえすれば、同じステージでも別のステージでも構わない。
恨み辛みにさえ飲まれなければ。

その選択肢を取ろうと取るまいと、歪み合う人は歪み合い、尊重し合える人は尊重し合う。
複数の愛をうまく扱えなくて、もしくは許せなくて、あるいは利己的にしか考えてなくて、
泥沼になる人は相変わらず多い。
結婚していて周りを巻き込む影響が大きくても、崩れる時は崩れる。
結婚していなくても、周りを巻き込む場合も多々ある。

一方で、複数の愛を純粋なまま経験している人も、きっと少なからずいて、
それはこれからの、認め合う社会の実現性を秘めている。

他者の価値観を責める人たちの中には、
いつか自分の中にも同じ性質があることに気がつくかもしれない。
それを正当化しようとする過程の中で、
人は多様な愛を持つ生き物であり、愛は一つじゃなくてもいいと思うようになれたらいいなと思う。
他を否定して、自己を否定して、答えに辿り着く。


愛する人の幸せ=私の幸せ

本当に愛せる人を見つけた時、
この世界にいてくれてありがとうと思った。
私と挨拶してくれてありがとうと思った。
お話してくれてありがとうと思った。
連絡先を交換してくれてありがとうと思った。
一緒にご飯を食べてくれてありがとうと思った。
何か一つある度に、もう十分すぎるくらいだと感謝した。
いてくれるだけで奇跡なのだから。
もっと欲しいとか、こうしてあげたいとか、
こうであって欲しいとか、それはやめてほしいとか、一つも思わなかった。
人はどうして一緒になりたいと思うのか、そちらの方がわからなくなった。

愛する人が、自分とは別の人と並んでいるのを見た時、
それがとてもお似合いで、愛らしくて、嬉しかった。
それは本当には好きじゃなかったからだとも考えた。
もちろん、悲しい感情もあったけれど、その感情も愛おしかった。
そして、その感情もすぐ流れて消えてしまった。
驚く事はあっても、嫉妬しない愛があるんだと知った。

その愛が自分に向けば、もちろん喜んで受け取るし、離れればとても辛くて寂しい。
愛は揺らぐし、冷めたり燃えたりを繰り返す。
消える事があるのは、常に自分の中だけで起こる。
でも、本当の意味で消えるという事は、ないんだと思う。
常に変わらないのは、相手が幸せかどうかというだけだ。
家族愛と変わらない。

連絡が途絶えた時、とても寂しかった。
それでも、愛しいという感情は消えなかった。
価値観を受け入れられなかったと感じた時も、悲しかった。
それでも、相手を想う時の温かさは消えなかった。
執着にもならず、憎悪にもならなかった。
どんな辛い気持ちも、生まれては蒸発し、感謝や温かさは残った。
私はこの人を本当に愛しているんだ、と思った。


その人が笑顔なら、それでいい。
笑顔でないなら、なんとかしてあげたい。
心から笑顔なら、相手は私だって誰だっていい。

想像してみた。
もし世界中がそうだったなら。

愛=いくつでもある

家庭のある人に愛された事がある。
私はその人を見下して取り合わなかった。
私がその人から欲しかったのは友情で、それに蓋をして、相手を見下すことで自分の不満足を誤魔化して、縁を切った。
でも、もしそれが真実の愛だったなら、と考えた時、
私は何をしてしまったんだろうか、と思考が停止した。
彼は家族も同様に愛していて、同じように私も愛していたのだとしたら。
彼を見下すべきではなく、欲しいのは友情だとはっきり伝えればよかったのでは、と。
もし伝えたなら、その人は一生、私の友人でいてくれたかもしれない。
私は勝手に愛を汚して見ていた。
真実じゃないと否定する材料はいくらでもあったから。

家庭のある元カレと会っている人もいる。
私はその人を見下していた。
でもそこに愛があるなら、止める権利など誰にもない。
愛は沢山あった方がいいのだから。

悲しむ人がいる、傷つけるから隠している。
その価値観を超える別のものがあるんじゃないか、とは考えなかった。
そもそも傷ついたり悲しんだりしない世界、とか、
傷つかないならば愛じゃない、という訳でもなく、
最終的に、もっと大きな愛に繋がる、という可能性について。

複数愛は人類愛になる

複数の愛を育む精神を模索する価値はある。
それは多彩な愛に溢れているという事だから。
愛する人が仮に旅先で愛を見失って、また戻ってきたら、
その時、自分が助けられるならそうするし、そうでありたい。
相手が本物の愛を持っているかどうかではなく、許すという次元からも離れて。
それは果てしなく難しいけれど、恐れを手放して本当の愛を注げば、
真に変わらない人はいないと思っている。

私はひとりの人をきっかけに本当の愛を知って(家族愛、友情愛など分けていた頃)、
またどこかで愛が生まれたら(戻ってきたら)、相手ではなく自分に問い続けたい。
その人がどうしたら笑顔になるか。
もし、その人が自分から愛を奪い続ける人で、自分が笑顔でいられないなら、相手にも注げないのだから、その状況からは離れるべきだけれど、、
存在価値を否定はしない。
相手はいつかの自分でもあるから。

極端なことを言えば、どんなに奪い続けられても、自分が笑顔でいられて、相手を笑顔にできるのであれば、愛を注ぎ続ければいい。
きっと、その人の中に眠る本当の愛はいずれ反応する。
結局は人類愛なのでは、と思う。

愛=不滅
ルール=不要になれば消える

人は本来、誰とでも愛し合える生き物で、心からそれができる精神なら、
私は制約など不要だと思っている。
それができない私たちだから、決まり事を作るしかなくて、
制約があるから、秘め事という別の感覚を持ってしまった。
それは甘美だし、とても心が安らぐから。

元々あった愛に対して、それも等しく同じだと気づく前に、逃れようとする。
でも気づくためには、一度逃れる方がいい場合もある。
愛は裏返ること(憎しみ)はあるけれど、一度芽生えたら消えることはない。
遠く離れて忘れたように思えても、深層意識では刻まれたまま記録されている。
思い出し、それも愛なのだと気づいた時、心の中で裏も表もない状態になる。

囲われた価値観の中で、決め事や制約の方を私たちは信じている。
でも一瞬でも輝いたその気持ちは、今既に持っている愛と何ら違いはない。
その感情は、一時であっても一生消えずに愛の気づきを促してくれる。

嘘や裏切りが不実であることに変わりはない。
でも、そもそも自分の中に、行動に起こしていないだけの不実はないか。
相手にも、自分にも、それを許せるだけの愛があるか。
また、最初から制約など不要な精神の社会があったなら、
嘘や裏切りという不実そのものは、存在し得なくなる。

自分は何も得られないのにも関わらず、
利己の富のために守れない人を叩けと煽る人に言われるまま、
ルールを信じ、守り続け、あるいは棚に上げ、
自分にもあり得る可能性(多彩な愛)を叩いている人は、
愛の体験が少ないのでは、と思うのだ。
守ってきた人にとっては、もしかすると、愛の自由を羨んだのかもしれない。


ルールがあり、守れない自分がいて、それを隠そうとする。
ルールがなければ、守るも守らないもないので、それを隠す必要もない。
ルールがあるのは、なぜか。
私たちはまだまだ未熟の途にある。


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