電車で誰かに親切をしたことがあるあなたへ
私の母は目が不自由だ。
一緒に電車に乗る機会が年に数回ほどあるのだが、毎度親切な人の多いことに驚かされる。
乗車して立っていると、必ず気付いた方が席を譲ってくださるのだ。
近くの席が空いていなければ自分が席を立つつもりなのだろう。母の白杖を見て、さっと周囲に視線を巡らせる方も多い。
ありがたいことだ。
この親切を、私も母も当たり前と思ったことはない。
何度経験しても感動する。
例え席を譲られないことがあったとして、それを不親切とは決して感じないだろう。
健常者だって、体調が悪かったりひどく落ち込んでいたり、人に親切をしている場合じゃないことは当たり前にある。
単純に気分じゃないこともあるだろう。
親切というのは、配慮する側が自分を犠牲にしてはいけない。
無理なくできる余力があって初めて実行されるべきものだと思う。
どんな人にとっても、どんな場面でも、人から親切にしてもらうことは当たり前ではない。
だから思いやりというのはありがたく、尊いことなのだ。
何かしら親切にしていただいたとき、母はいつも明後日の方向に視線を投じてお礼を言う。
見えないので、声で大体の方向はわかっても目までは合わせられない。
そんな時は自分が相手の目をしっかりと見てお礼を言うことにしている。
母が一人で電車に乗るときは、駅員さんに助けてもらうこともあるそうだ。
同行者がいれば頼ることもないので、私は直接お礼を言えたことがない。
いつもありがとうございます。
母を通して混じり気のない真心に触れるたび、私に何が返せるだろうかと考える。
いつからか満席の車両で座っている時には、停車駅で席を譲るべき人が乗ってこないか気にするようになった。
前に立った人のカバンに、妊娠や障害を抱えていることを示すチャームがついていないか確認するのも習慣になっている。
電車で助けが必要そうな人を見かければ必ず声をかけるし、断られたら恥ずかしいとか、勘違いだったらどうしようと躊躇うこともない。
こんなことは、人によっては最初からできて当たり前のことかもしれない。
お恥ずかしながら、私は生来気が利かないし親切でもないので、母のことがなければそこまで意識できなかったと思う。
当たり前のように親切にしてもらったから、それを自分がすることもまた当たり前なのだ。
よくしてもらったから何か返したい、というのは人間の自然な心理だろう。
あの時あなたがした親切は、こうして循環している。
あなたが助けたのは私の母ではなく、誰かの父かもしれないし、姉かもしれない。
誰にせよ、その親切はきっとあなたが助けた人だけではなく、もっと多くの人へ届いている。
そのことを知ってもらいたくて、ここに具体例を記すことにした次第である。
電車で誰かに親切をしたことがあるあなたへ。
ご高覧ありがとうございました。