工事現場の飯場で育った私‥流れ流れて(昔の記憶をわすれないうちに)
どんどん薄れていく記憶。
最近のわたしは、これからの事や、行きたい所、やりたいこと等を思いめぐらすことの方が多く、あまりに昔の事は想い返すことも少ない。
最近、10年ほど前に書き始めたものをたまに読み返しているので、読むと、あぁ、そうだったなって次々とまた思い出したりはする。
記憶が薄れていく前に、少しずつ、昔の自分が書いたものを読みながら手直ししていくのもいいかもしれないと思っている。
子どもの頃は、私を捨てた親の話など興味がなくて
聞き流していたので・・・
今思えば、もう少し真面目に聞いておけば良かったなとも思う。
定かな記憶ではないけれども、何度も耳にはしていたのでなんとなく覚えている。
病院で私を産んだものの、病院に支払うお金もなく困っているのでここで(工事現場)住み込みで働かせて欲しいと頼み込んできた、若い二人。
まだへその緒がついた私を連れて逃げるように病院を出てきたらしい。
翌朝には、前借として借りたお金をもって二人とも姿を消していたそうで、残されたのは名前もついてない赤ちゃんのわたしだけ。
そんな無責任な人たちが私の産みの親だ。
苗字は鈴木(これも偽名かもしれないが)、どこにでもいる苗字。
ヘソの尾のついた状態で・・・置いてきぼりにされたわたし
病院に払うお金もなく逃げ出してきたといっていたそうだが・・・なんで産んでしまうようなことになったのか。。。情けない話だなって子どもながらに思ったものだ。
そんな人たちの血が流れている・・・その背景がわからないだけに若いころはそんな子どもを捨てるような人たちの血が流れている私は子どもを産んじゃいけないんじゃないかなと真剣に考えていた。
母親の方はかなり若そうだったらしいので・・・今も何処かでわたしの知らない家族の中で暮らしているのかもしれない。
孤児院に預けようと連れて行ったそうだが・・当時の施設はあまりにもひどい状況で赤ちゃんが泣き続けているような悲惨な状況に、さすがに可哀そうだと置いてこられなかったようだ。
当時その工事現場で、飯場の賄いをやっていた女性と、とび職人の男性の二人が私をとりあえず、その消えた二人が戻るまでと育てることにしたらしい。
その間も、消えた二人を探していて、1年後くらいにみつけたらしいのだが、その時には男性の方は結核にもかかっていて育てられないし、もう〇〇さんに似ているし(育てているから?)いらない・・みたいなことを言って引き取らなかったらしい。そんな言い分が通るのか?
そんなこんなで私を引き取って育て続けることになって二人
女性の方(のちの養母)は自分の産んだ子(5人くらいいたのかな)を捨て、とび職人だった(のちの養父)と一緒に暮らしていたような人だ。
養母は喧嘩して出て行くことも多く、ほとんど鳶職人だった養父が仕事の合間にオムツを取り替えたりしながら育てたようだ。
それこそ休憩時間に時間がないのでおむつを替える時にはホースでお尻に水をジャーっみたいな感じで洗っていたって聞いたことがある。
そして普段はいい人で腕のいい職人だったけれど、酒癖が悪く酒を飲むとかなり荒れることもあった。
背中にはかつての暴れ者の名残のスジボリ。夜叉の顔と龍だっただろうか・・・。特攻隊の生き残りだった養父は戦後荒れていたこともあるようだ。ヒロポンをやめる為に酒を飲むようになったと聞いてことがある。
後から知ったことだが、戦時中は軍隊でも市販薬として使われていたもので疲労回復や作業の効率を高める為に使われていたらしいが戦後市場にかなり出回ったらしい。覚醒剤の問題点が浮き彫りになるのはその後だいぶたってからだったらしい。
ヒロポンをやめる為に酒に依存していくことになったとは・・・
ボクシングをやっていたこともあったようだが、それも酒で駄目になる。
最後は酒のせいで・・・命を失うことになる。
酔った姿を見ることが多かったからか、わたしはお酒は好きではない・・・お酒を飲んでも酔えない。
養母も普段は我慢してしまう性格だったのか、切れると凄かった。
竹の枕でたたかれ続けたこともある。
お気に入りの洋服を引き裂く姿は目に焼きついている。
それでもすくすく育つわたし。
いつか迎えにくるかもしれないからと・・・養子にすることもなく・・・。
そういう役所的な手段には疎い人たちだったのも手伝い、わたしはそのまま中学を卒業するまで戸籍がないまま育つことになったのだ。
幼い時期に当然うけるはずの予防接種等はいっさい受けていない。健康でよかった・・というか今思えばだから健康だったのかも・・
病院の薬をたくさん飲んでいる養父母の姿を見ていたせいか、私は薬や西洋の医学には若干懐疑的なところがあり、めったに病院も行かないし薬も飲むことはほぼない。育ててくれたのは有難いけれども反面教師的な二人ではあった。
飯場で育つということ・・・それはひとつの工事が終われば次の工事現場へと移動の日々。
もちろんちゃんとした躾などされる暇もなく(養母はいない事の方が多かったし、養父も肉体労働で疲れ切っていたので)
放置され、半野良状態で、それでも元気に育っていった。
道端の花を眺め、あちこちお散歩して、野良犬の仲良しになったり。
そんなわたしの記憶の中にポツポツと残る幼い頃の日々
幼稚園に行きだした頃だろうか・・
出稼ぎできているおじさんたちがわたしの遊び相手だ。
東北訛がよくわからず、何度も名前をちゃんと呼ぶように言った記憶がある。
私の名前には「ち」という発音があるのだが・・何度おしえても「つ」という、おじさんたち。
何度も「な・ち・こ」って私がいって「だからなづこだべ」とおじさん。
今思えばきちんと呼んでくれていたんだろうな。
やはり飯場暮らしの幼い子たちと遊んだ記憶もある。
地面に覚えた字を書いて「ばか」という字と「バカ」という字を互いにこっちが正しいと言いあっていた記憶。
千葉の文化会館を建設中の頃・・やはりその近くのプレハブで暮らしていたが、その時に買っていた?猫がトイレに落ちてしまってショックだったこと・・・
小学校に入ったときに 工事現場のおじさんの1人が入学のお祝いにとカメラを買ってくれ一万円札をくれたこと。そのおじさんは昔工場で指が挟まれたとかで片方の手には指が3本しか残っていなかった。
職人さんの誰かの寝タバコが原因でボヤ騒ぎがあったり・・・竜巻で飯場のプレハブ小屋が壊れたり。
それでも私が小学校に入ったのを機に養父母は定住の道を考えたらしい。
最初に借りていた家は 親切な大家さんが亡くなったとたん手のひらを返したように立ち退きを要求してきたのを覚えている。
仕方なく学区内で住処を探し、一時しのぎに夏場は競輪選手の人が使っているという小さな小屋に住んでいた。そこの庭にはえていたほとけの座の花を可愛い花だなって眺めていたことを何故か覚えている。
その間に何度か県営住宅の募集に応募したらしく、小学校2年生のはじめに5階建ての団地の3階に住むことになった。初めての転校。
そして初めてのちゃんとした家。
今思えば普通の3LDKの団地だけれども、部屋がたくさんあるような気がして襖を開けたり閉めたりしながらグルグル部屋を回っていた記憶がある。
水洗トイレも初めてで・・すごいなぁ~って子供心に感動した。
養母は・・何かというと私を捨て子とののしる。
なんでも役所の人に、後から知ると良くないから最初から知っていた方がいいと言われたとかで(なんか意味をはき違えているとおもけれど)、捨て子の癖にという言われ方は、結構傷つくものだ。
そんなことをいわれるくらいなら施設で暮らしたほうが良かったのに・・と何度も思ったものだ。
今思えば養母の心も病んでいたのだろう。
幼い頃に津波で肉親をなくし、小学校もロクに行かせてもらえず(養母は大正生まれ)、よその家の子守等をして暮らしてきた人だ。
家庭というものに慣れていないのであろう。
ほとんど家にいることもなく、泊りがけの家政婦等の仕事を好んでしていた。
帰ってくれば、酒乱の養母と刃物が飛び交うような激しい喧嘩。
わたしの存在がなければ一緒に暮らしていないと喧嘩するのを聞くたびに・・
わたしの犠牲になっているようなことを聞くたびに・・・
悲しかった。
そんな養母も・・・最終的にはアルツハイマーに蝕まれ・・わたしの顔すらわからずに・・
ただ、よく来てくれる優しい人として認識はしてくれたが・・・。
わたしにしてきた仕打ちすら・・・忘れ。
自分が産んだ子どもたちの名前だけはしっかりと覚えているようで、何度も子どもたちが幼い頃の話をわたしに聞かせたものだ。
最後の最後の日まで・・・
わたしのことは記憶の彼方に・・・。
やはり・・・わたしは愛されてはなかったのだろう。
長いこと愛の飢餓感のようなものは満たされていなかったように感じる。
認知症になりはじめで、記憶がたまに戻っていた頃・・養母は「あんたには何にもしてあげなかったね~」とつぶやいたことがあったっけ。
少しは罪悪感を感じていたのだろうか?
わたしは・・小学生の低学年の頃にはご飯の支度を自分でしていた。
養父もたまに遠くの職場になることもあり、そんな時には週に1度しか返ってこない。
夜になっても誰も帰ってこない団地の部屋でひとりでいることは普通のことだった。
だから・・わたしはよく巷で聞く言葉
あの人は育ちがいいとか、育ちが悪いとか
ご両親の躾がちゃんとしていたのね。とか平気で口にする人たちが苦手だった。出身地とかご両親は何をしているのとか・・・なんで聞くんだろうっていつも思っていた。
10年以上前に書いた記事がこちら
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