「天使」と承認についての雑感
「インターネットエンジェル」という概念が興隆して久しいようなそうでもないような気がする。おそらく『NEEDY GIRL OVERDOSE』という喜屋武京介さんのゲームが元ネタなのだが、それ自体の内容はあまり問題ではないというかどうでもよい。私の関心は、空想ではなくリアルで「超てんちゃん」を演じてしまう人間の惨たらしさという問題にある。
インターネットエンジェルを目指す承認欲求強めな女の子。SNS時代に対するある種のシニカルな眼差しを孕んだこの類のコンセプトは、ゲーム等の虚像空間にとどまっている限り特に問題を生じさせなかっただろう。しかしインターネットエンジェルを現実に自称するサブカル系のソレはなにかサークルクラッシャー的な感性を内包しているように見える。ただクラッシュする範囲規模はオタクサークルなどではないおそらく別次元のものだ。バーチャルな推し文化の危険性は個人の経済面とかそういう局所的な視点ではなく、社会の紐帯という根本的な問題に直結するのではないかという気がしてならない。巫女的存在は何らかの拍子に分断と対立を煽る象徴として機能し、政治ゲームを活性化させるリスクを常にちらつかせているのではないか。
インターネットエンジェルの定義は重要で、それはその名の通りインターネットによる拘束なくしては成り立たない存在である。そして人一倍の承認欲求を持ち合わせている。人間の社会性というのは基本的に他者との交流によって育まれるものだ。交流はその性質上つねに相互的であるから、人間は「自己が絶対的な主体となりえない」という意味で自己を喪失したまま自我を確立していくことになる。幼児はおもちゃのような単なる「物」としての客体に対しては安定するが、母親という「他者の意識」に対しては泣き喚くことによって不安定に欲動を承認させようとする。これは成長につれて表面的ではなくなるが、現実社会の歯車はここにうまく折り合いをつけて動いているといってよい。
私の想像しうる範囲ではあるが、インターネットエンジェルの視点は自己意識のみを問題にしており、フォロワーは数字に出力できる「物」にすぎない。前段落の内容から導かれるような極めて普遍的だった承認の相克関係というのは、彼女らの島宇宙においては実践される余地が消し去られているのである。相互承認が不可能な場においては両者の間で何らかの齟齬が生じるだろう。自己意識のみに焦点を当て続ける限りにおいて、主人公性が100%担保されているという全能感により天使は自らのエゴイズムを暴走させることができる。一方、このときフォロワーの側は天使から無限に生成される承認欲求の受け皿にしかなりえない。ヘーゲルは承認という経験のプロセスの出発点に「闘争」の概念を置いたが、彼らは天使と違い欲求を満たすことができない状態に置かれてしまうために将来にその加虐性を展開させてしまう可能性すらあるのではないか。
刑法学が因果関係の成立に「危険の現実化説」を採用しているのと同様の理論で、創作上のインターネットエンジェルという概念が実際の痛みを伴うようになるのはその性格にリアリズムを帯びる時点からだと思う。