1923年9月1日の記録
101年前のこの日、私の曽祖父、日光金谷ホテル2代目社長・金谷真一は日めくりカレンダーに「正午強震あり。東京方面の被害甚大なる模様なり。電信電話ことごとく不通。」と記しました。以下は栃木県日光市にいた曽祖父の関東大震災記です。
この年は、眞一にとってなかなか厳しい年でした。1月に父・善一郎(金谷ホテル創業者)が亡くなったのは、妻を体調不良のため東京の病院に入院させた翌々日のことです。ほぼ毎月、9月にライト館の開業を控えた帝国ホテルの役員として上京し役員会に出席、日光でも本業の金谷ホテルのほか、日光自動車会社、日光軌道会社などの役員として多忙な日々を送っていました。そんな中、うれしい出来事は弟・正造が経営する箱根・宮の下の富士屋ホテルが箱根ホテルを買収し新規開業したことです。6月に眞一も出席した開業式も終わり、7月には正造が友人とともに日光にきて、眞一も一緒に丸沼や湯本で4泊5日の釣り旅行に出かけました。つかの間の息抜きの釣果は上々で、正造が釣り上げたニジマスは「27 inches long, 6 pounds」といいますから、70センチ、3キロ近い大物でした。
9月1日の地震の後、すぐに親族や知り合いの安否確認をしましたが、妹の夫や甥、異母妹が東京で消息不明となり、異母弟や社員を確認のため自動車で東京に派遣しています(その後無事日光に到着)。おそらく新聞情報が主だったでしょうが被害状況は、「東京全市猛火に包まれ死者2万人」、「熱海、小田原全滅」「江ノ島水没」などが日めくりに記されています。情報が錯綜している様子が伺えます。さらに心配なのは、箱根の弟・正造と富士屋ホテルです。電話不通で安否は不明、確認に社員を送り情報を待つ間、帝国ホテルに支援物資として白米2俵、自家製パン300個、鳥20羽などを自動車で2度に渡り送りました。日光駅前にも避難所ができて、金谷ホテルもテントを1張り提供しました。金谷ホテルは幸いほとんど被害はありませんでした。
ようやく箱根の正造から状況を知らせる手紙が届いたのち、10月4日正造自身が日光にきて必要な支援などの要請をおこなったのでしょう。電気技師や大工などが日光から早速派遣され、それを追いかけるように眞一自身も箱根・宮の下の富士屋ホテルに向かいます。東京から徒歩と自動車で湯本へ、そこから徒歩で3時間ほどかけてようやく到着しました。「被害は他に比べて少ないが、修復には4−5ヶ月、15万円ほどはかかろう」と書いています。莫大な金額です。ホテル付属の自動車会社は全焼、車も失いました。6月に開業したばかりの箱根ホテルは「崩壊」です。
あまりの惨状に驚いた眞一は正造に、復旧はおそらく無理だから、一緒に日光に帰ろうと話したようです。しかし正造はこれを拒否。「ここで帰ったら男がすたる」という心境で、以降ホテルに通じる道路を含めた復旧に邁進していきます。
10月18日には帝国ホテルで開かれた役員会に眞一・正造共に出席。フランク・ロイド・ライトが設計し、多大な予算と工期の超過をへてようやく9月1日の開業にこぎつけた当日に震災に見舞われたライト館ですが、図らずもその耐震性を証明しました。
11月になると、久邇宮朝融王殿下が徳川公爵とともに日光金谷ホテルにいらしたり、だいぶん落ち着きを取り戻したようです。ちなみに殿下は震災当日に富士屋ホテルにご滞在。建物内が危険なので畏れ多くも車中泊をお願いし、数日間のご不便も受け入れて下さった方ですが、この頃にはもう遠出をなさっているとは大胆なお人柄がうかがえます。
12月には、かねてから予定のアメリカンエキスプレスの団体客360名が、3回に分けて日光金谷ホテルを訪れました。すでにこの規模の外国人客を迎えることができる程度に東京や横浜も復旧していたと推察できます。
12月31日には正造が日光にやってきました。兄弟2人、何を語り合ったのでしょうか。明けて1924年1月1日の眞一の日めくりには「二荒山神社に参拝」とあります。また1年の決意を共に新たにし、それぞれの挑戦が始まります。
参考文献:富士屋ホテル八十年史 (1958)
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