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あるホテリエの終戦の日〜上海その後

8月に書いた「あるホテリエの終戦の日」↓は、私の祖父でのちに日光金谷ホテルの3代目社長となった金谷正夫が、上海で終戦を迎え、英国人婦人が貸してくれた車で日本人租界へ脱出するまでを書きました。祖父が昭和35年に出版した著書「わがこころのホテル」には、その後の様子も描かれています。

日本人街での暮らし

当時上海に居住していた日本人は約5万人。上海共同租界北部のいわゆる「日本人街」に多く暮らしていました。祖父が日本軍の要請で支配人を務めていた外灘(バンド)のパレスホテル(1908年開業。現在の和平飯店南楼。)からは、四川路を北上し蘇州河を渡れば比較的近かったのではないでしょうか。英国婦人が貸してくれた英国国旗を立てた車のおかげで、蒋介石軍の検問を突破して無事日本人街につき、以前から万一の際は受け入れてくださると話のあった「藤江」さんという友人の家にたどり着きました。日本人街にいれば日本の消息もわかり、終戦決定後の抗戦派のクーデターで森近衛師団長が青年将校に殺されたこと、阿南陸相の自刃などの情報も伝わっていたようです。帰国のめどはない一方、略奪や襲撃の恐れがあっても自警団を組織するぐらいしか方法はなく、不安な日々が続きました。

米国軍の来訪

冬も近いある日、アメリカの将校が日本人街の家々を、誰かを探してやってきます。二階の窓から見ているととうとう藤江家に近づき、人々の口から「金谷」という名前が聞こえてきました。将校の手には召喚状と思われる封筒も見えます。日本軍の要請で中国から接収したホテルの運営を行っていた祖父は、戦争協力者としてどこかに連行されるのだろうと覚悟を決めて玄関へ出て行きました。将校は祖父に、本人確認のために幾つか質問をしたのち、「この手紙はあなたに渡すべきものだろう」と言って封筒を差し出しました。万事休す。

皆が固唾を呑んで見守る中開けた手紙は予想に反し「太平洋全域の通信司令官エイキン大将」から、「日光の家族が君の身の上を心配しているから、どうしているか知らせるように」との手紙でした。また家族がみな日光で無事でいること、終戦直後から米軍第8軍の将兵休養場として接収された金谷ホテルで義父(私の曽祖父)金谷眞一が奮闘している様子なども記されていました。驚きつつも祖父は早速親切な手紙を寄越してくれた大将への礼状と、眞一宛の手紙を英文で書き、大将からの手紙も含めてすべて連絡将校に読んで聞かせました。すると将校は「家族が知りたいのは、金はあるか、食事はしているか、着物はあるか、とかだ。もっと具体的に書いた方がいい。」と親身なアドバイスをくれたと言います。書き直した手紙を再び読んだ将校は満足して手紙を受け取り、祖父と一緒にタバコを一服してから帰って行きました。

検証してみました

以上が祖父の著書の内容ですが、当時「太平洋全域の通信司令官エイキン大将」が、日本で接収した1ホテルの主人のために、わざわざ海外に手紙を出して家族の消息を確認してくれる、というのはにわかに信じがたい気がします。そこでまず、この「エイキン大将」について調べてみたところ、確かにSpencer Ball Akin (1889 –1973)という、当時はChief Signal Officer, United States Army Forces in the Far East (極東米陸軍信号部長?)だった人物が見つかりました。フィリピン時代からのマッカーサーの部下で、最終的な階級はMajor General(少将)のようです。

エイキン少将 (Wikipedia)

次にこの人物が実際に金谷眞一と親しかったのか、接収中の金谷ホテルに来ていたのかを曽祖父の日記などで確認したところ、少なくとも1945年の記録には見当たりませんでした。しかし、以下のような記述を見つけました。

Capt. Avery Peterson
General Akin's Office, Jockey Long Distance #210
Dai-Ichi Insurance Bldg, Tokyo

金谷眞一 Daily Memo No.2 1945 より

GHQが置かれた第一生命館です。おそらくエイキン氏の部下と思われるこのピーターソン大尉は、1945年の金谷眞一の日記に「ペタソン大尉」として秋頃から頻繁に登場し、眞一や妻・多加(英語が堪能でした)とも親しく付き合っていた様子が伺えます。そしてこの年の11月27日の日記には、以下の記述がありました。

午前十時、ペタソン大尉突然来光し、上海に於ける正夫の近況を報ず。正夫は(パレス)ホテルを立ち去り、室借りの生活をなし自由なる模様にて別に禁足などを受け居る様子なしとのことなり。

金谷眞一日記 1945年11月27日より(カタカナをカナに変えています)

以上のことからおそらく、正夫の消息確認の実務を日本から取り計らってくれたのはこのピーターソン大尉だったと思われます。それが上司のエイキン部長の名前で祖父の記憶に残ったのは、エイキン部長も承認の上で、その指示の下に捜索が行われたからなのかもしれません。

終わりに

当時曽祖父はすでに60代後半でした。社員の多くは出征し、頼みの娘婿は上海で消息不明。連合軍による金谷ホテル、日光観光ホテル(現在の中禅寺金谷ホテル)、さらに鬼怒川温泉ホテルの接収という未知の状況に孤軍奮闘です。戦勝国の軍人たちが届けてくれた「正夫無事」の知らせは、曽祖父や家族をどれほど勇気付けたことでしょう。

祖父はその後1946年2月に日本に帰国することができ、すぐに中禅寺の日光観光ホテルの接収対応業務につきました。「ペタソン大尉」は同じ年の6月に日本を離れることが決まりました。大尉の最後の来晃となった6月21日曽祖父の日記には、大尉について以下のように書かれています。

昨年知り合いとなり僅々10ケ月間親子のごとき温情溢るる交際を続けたる米人にして年齢27歳、稀に見る青年なり。

金谷眞一 Daily Memo No.2 1945 より(カタカナをカナに変えています)

上海の祖父も、接収中の曽祖父も、立場を超えた友情に助けられました。戦争のニュースが溢れる今だからこそ余計に、小さな光を感じます。

*トップの写真:©︎PEI Architects
  左側が旧パレスホテル、右側は上海バンドのランドマークだった旧サッスーンハウス(キャセイホテル)。現在はそれぞれフェアモントピースホテル南楼、北楼です。



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