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(ほぼ)100年前の世界旅行 上海〜神戸〜日光1925/12/19〜25(完)


1925年6月1日に横浜を出港してから7ヶ月、曽祖父・金谷眞一は12月19日に上海を出航し、一路神戸へ向かいます。

さすがに不調

ここまで1人でアメリカ、ヨーロッパ、エジプト、インドを一人旅してきた46歳の眞一、途中胃腸の不調や風邪もなんとか乗り越えてきました。でも最後の航海でついにダウン。日本到着を目前に、旅の疲れがどっと出たのか、船内で39度の発熱です。船医の診察を受けて寝込んでいる中、ボーイにルームサービスを頼みますがこれがなかなかうまくいきません。スプーンを頼んだのに空き瓶、バターはボイルドチキン、ジャムはハム、リンゴはパンという具合で、なんだかコントみたいです。とうとう癇癪を起こしたところようやく英語を解するボーイが来てくれましたが、頭痛がひどいのは熱のせいばかりではなかったかもしれません。

12月21日、船は瀬戸内海に入り、眞一の熱も下がってきました。荷造りを始めたところに、弟・山口正造(箱根・富士屋ホテル)から、神戸に迎えに来るとの電報が届きました。8月に滞在したロンドンで正造のために買い物しすぎて以来、90キロ超の荷物と共に旅をしてきた眞一ですから、最愛の弟からの知らせは嬉しかったことでしょう。

神戸到着

12月22日、無事神戸に到着。正造の他、娘婿の正夫(私の祖父です)が出迎えました。トーマスクックのグリーン氏とも、上海に赴任する直前で神戸にいたことが幸いし、再会できました。グリーン氏は8月に眞一がロンドンに滞在していた時に静養先のWeston-super-mareにおり、眞一は友人で写真家のハーバート・ポンティング氏の運転する車で見舞いに訪れています。昨年、その際に眞一が撮影した写真が見つかりました。ここで初公開です。

ポンティング氏。1912年南極探検のスコット隊に帯同。南極点に同行しなかったので、遭難を免れ、南極大陸の記録を持ち帰りました。

家族の元気な様子を見て、ホッとした眞一、早速昼はすき焼きです。その後「本庄氏新設工場ならびに登山鉄道により神戸を一望し、夜は中華料理をご馳走になる。」と日記に書いています。この本庄氏は大正時代に阪神地域で「甲陽園」を開発した実業家・本庄京三郎氏と思われます。東京でいえば田園調布のようなイメージでしょうか。少女歌舞劇の劇場や映画館、撮影所、遊園地、デパートなどもあったようですから、リゾート開発なのかもしれません。関西にお詳しい方のご教示お待ちします。このころの眞一の日めくりには、金谷ホテルで年末年始などに宿泊客のために映画を上映していたようで、映写技師の派遣に関する記載にも「本庄」という名前が出てきます。おそらくそうした縁で知り合いだったのでしょう。なお、本庄氏は1922年(大正11)に発足した関西工学専修学校の創設者でもあります。この学校はのちに大阪工業大学となり、ラグビーの強豪・大工大付属高校は現在の常翔学園だそうです。知らなかった。

京都ー東京ー日光

神戸・バンドのオリエンタルホテルに一泊したのち、12月23日には汽車で京都へ。

上海と同じ「バンド」はウルドゥー語で「人口の堰」の意味だそうです。
なるほど!

京都に一泊し、翌日朝9時50分に出発して東京に夜8時半到着。今なら新幹線でビュン!ですが、当時は大変な長旅なのですね。東京では長女・花子(私の祖母です)が出迎え、皆で帝国ホテルに宿泊し、翌12月25日午前中にかかりつけ医の診察を受け、異常がないことを確認。いよいよ11時に上野駅を出発し、懐かしい日光へ夕方4時に到着しました。途中の宇都宮駅でも、日光駅でも、たくさんの人が出迎えにきてくれました。

帰国を報告、そして

明けて12月26日は金谷家の霊廟に参って帰国を報告。これでやっと、帰ってきた、とホッとしたことでしょう。

7ヶ月間、1日も休まず書き続けた旅行記の最後のページには、海外向けのクリスマスカードに書くような文章が並んでいます。

With every good wish for your happiness during Christmas and prosperity throughout the coming year.    From....
To greet you with all kind thoughts and best wishes for a joyful and happy Christmas.    From....

1925年金谷眞一日記より

旅行中に出会った人たちに出すお礼状に書くには季節はずれなので、翌年の準備とでも思って目についたものを書き留めていたのでしょうか。またこの数日後の12月28日の日めくりには眞一の筆跡で「鳴滝、赤沼合流点視察」とも。奥日光・戦場ヶ原の赤沼あたりまで出向いたのでしょうか。世界旅行から戻ってたった数日、また多忙な日常が始まったようです。

13カ国、約50都市、60のホテルを巡ったこの7ヶ月の旅行の体験をもとに、日光金谷ホテル2代目社長・金谷眞一は、激動の昭和時代を生き抜いていきます。(完)

*長いこと、お読みいただきありがとうございました。1年近くかかってしまいましたが、約100年前にこんな旅をした人がいたこと、知っていただけたら幸いです。日光金谷ホテルは昨年創業150周年を迎えることができました。トップの画像は大正時代の金谷ホテルの様子ですが、眞一はその後、新築や改築を行い、今に残る日光金谷ホテルの形を作っていきます。

今はこんな感じです。右が別館(改修前)、左が本館。

その辺りの変遷含むホテルの歴史は、150年記念ウェブサイト↓(https://www.kanayahotel.co.jp/150th/#menu)がおすすめです。

ではまた、お会いいたしましょう!

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