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捧げる 込める の価値

これまで、プロフェッショナルとして世間で言う「高価で良いモノ」にはさまざま触れてまいりましたが、わたくしにとって当時の仕事の醍醐味とは、モノに対するそれぞれのひとの思いを知り、それをどうブランドに繋げて応えるか、仲間に応えてもらうかというところでした。
チョット変人です。にんじんで走りませんし、名刺もめったに出さなかった。
業界には、自分で商材をどっさり所持してブランドとイコールのつもりになっていたりお客様の身なりを自動計算するタイプの人々も一定数おりますし、キャラが相当立っているスタッフも必ずおりますから、そのあたりが嫌われたりうさんくささを感じさせる面も当然ありました。
しかし、それは舞台全体の登場人物のようなものです。そこに相性の良いお客様もいらっしゃいますから、わからないもの。

良い悪いではなく、世の中には色々な美意識がありますね。自身からおのずと湧いてくるところを見定めればよいのです。
わたくしの場合
「ああっ、美しいな、素晴らしいな、これは価値がある」
と感じるのは、どうやら "黙っている" モノのようです。どういうことかと言うと

アピールはしないけれど深く秘めているナニかを持っている

とでも申しましょうか。
ここが良いところ、ポイント、特徴ですというのは二の次で、言葉にならないイメージなり想いなりがあるから、こんな風になっています、ということ。これって、特に日本人の手仕事に多いと感じています。
わたくしはこれを 祈り、捧げる、込める と勝手に呼んでいます。
例えば、下記の作品のように。

「見立て」のもたらすもの|美恩 (note.com)

打たれるようなモノには、言葉では説明できない想いを "せめて" "どうか" 形にするという、作家の動かされている感が共通します。
それを超えたところから、わざわざモノにあてはめている、とも言い換えられるかもしれません。

作家に乗った思いが動き、手作業、手仕事となる。
仏師は、素材の中に仏を観てそれを掘り出すだけ、と伺ったことがありますが、どこか通信しながらつくられている感じがします。
だから、モノそのものはおしゃべりしない。言葉にならないほどのナニかを秘めているので、気がつけば吸い込まれている。
観ているほうも黙ってしまう。
こういうモノが、わたくしは好みです。

仮に、
世の中の非生活必需品を全て個人で価格をつけて支払う、となった場合に、キョロキョロしないで自分で価値を決めてサラっと支払う、或いは高すぎて我慢するようでありたいと思っています。国宝に推薦したり。
おそらくその時は
現在の「高価なモノ」はそれほどの価値を保っていないだろうと感じてしまうのです。携わってきただけに。

そんな時代はやって来ないと思いますが、少なくとも自身の美意識や価値観くらいは、確認しておこうと思うのです。












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