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苦味のある大人の娯楽

気が付いたら自分が大人になっていた、と感じたのは、ひとりでふらっとフレンチレストランに入り、ゆっくり楽しんだランチのデザートになってから。
久しぶりのトルコ料理店が閉まっていたのでぶらぶら歩いていたら、常に待ちの出ているレストランが空いていたのを発見。めずらしい、と入って案内されたテーブルについてから、メニューを選んでグラスワインを頼み、ふぅぅ、お腹いっぱいです、となった時でした。
あれ、そういえば周りはそれなりのお洒落をしているグループばかり。わたくしは日常スタイル。
ああ、だからあのお喋り盛んな若い女性テーブルがこちらをチラチラ見ていたのか。
カウンターで良かったのに、お目汚しになってしまったかしら。ま、ウエイターさんが案内したのだからどうでもいい。

歳を重ねることが悪くないなと感じるのは、若かった時には未熟であるあまり出来なかったことが、呼吸をするようにできること。
パリで初めてひとりビストロに入った時のドキドキを覚えています。
現代のひとは、昔のわたくしよりも出来ることがずーっと多くて羨ましいですが、時を重ねてから厚みを持って物事を楽しむのも、色々な味わいがあって悪くないものです。美味しさの成分には甘みや旨味だけではなく、苦味があるもの。

そんな、複雑で自分次第で美味しさが変わるような娯楽を体験してまいりました。

横浜にぎわい寄席 十一月興行

昔父に連れられて行った際もそれなりに楽しめましたが、今の方が格段に楽しめる。
寄席は、どこの会場で観たかが重要ポイントのようですが、 (十一代 桂 文治|美恩  この文治師匠のお弟子さんが出てました ) それはもちろん地理的な話しではなく、その場のムードのことですね。
お客様の中にはご常連とおぼしき方々もちらほらいらして、笑い方が上手い。つまり受け身で
「面白いなら笑う」
ではなく、ちゃんと聞く体制が整っていて、楽しむ気まんまんなのです。これって大人の自己コントロールだと思うのですが、いかがでしょうか。

満場の客数ではなくてもかまわない。
まばらならまばらで、そんなこともおかしみに変化させる空気感が、演者と客席によって創出されるのです。
落語の間にはパフォーマンスが入って、お客が手伝わされたりするんだよ、と教えてくれた父はしょっちゅう声を掛けられていたもよう。
この日も、前席の方の男性お二人が演者と一緒になって楽しませてくれました。

演目が進むにつれて、ベテランになっていくのが良くわかります。
会場がだんだん温まっていって、その生の空気を最後に一身に受けて立たなければいけないのですから、その器をつくるまでどれだけの場数があったことでしょう。
寄席といえば、扇子の使いかたや声色、息継ぎ、しぐさ表情、愛想などなど、数え切れぬ匠の要素が挙げられますが、まさに。素晴らしい。
それに加えて重要だったのは、動画ではわからない会場のその空気というかオーラというかに身を浸してみると、却って「自分が遊びに対してどうなのか」という基本に気づかされることです。

寄席に入り浸っていた文豪は沢山いたそうですが、夏目漱石は気に入りの噺家の演目になると、なんと演者が座布団に座っただけでくつくつと笑いをこらえていたと言いますから、たいした上級者です。
何度も聞いていればネタも覚えて落ちも把握しているはずですが、おかしみとは内容のみならず、その会場全体の空気と、何よりも自身の愉しみ上手なつくりあげがあって初めて成立するのかもしれません。
どうかすると、つまらないことが、面白くなってしまう。
苦味が、旨い。

楽しみではなく、愉しみは、大人だけが持てるマナーだと思います。
玄人とは、何につけても愉しみ上手になってから初めてなれるものなのかもしれませんね。


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