なごり雪 1

 3月31日の未明からミゾレが降りはじめていた。

 夜明け前にアパートの立ち並ぶ裏道に1台のタクシーがハザードを付けて停まっている。

一番近い棟の一階のドアが開いた。

「じゃ、帰るね。タクシーが来ているから。荷物は後で送ってくれればいいから。別に急ぐものが入ってないし。」

ひろみはそう言うと、大粒のミゾレの降る中に飛び出していった。

私は「うん、わかったよ。」と答えるのが精一杯だった。

その声すら、彼女に届いたのかさえわからない。

見送る私を振り返ることもなく、まるで私から逃げるかのように駆け足でタクシーに乗り込んだ。

乗り込むと同時にドアが閉まる。

タクシーがゆっくりと走り出し、右折して市道にでた。

その時、タクシーの中からこちらを見たようには思えなかった。

見てほしかった。

「もしかしたら、ひろみに会うのはこれが最後かもしれない。」という思いが頭をよぎった。

アパートの奥の和室の6畳間には、似合わないダブルの高級フランスベッドがドンとある。

私は発熱して少し朦朧としている。

部屋の中はいつもよりもしんとしているように思った。

ストーブをつけているのに、なぜだか部屋中が冷えきっている。

「風邪をひいて発熱しているのに。横にいてくれても良いよね。仕事なんか、休めばいいんだよ。」そう吐き捨てるようにつぶやきつつ、ダブルベッドに潜り込む。

ただ単純に彼女に甘えたいのだ。

枕元に電話がある。

何度も電話をチラチラ見る。

見ても呼び鈴はなるはずはない。

駅に着いて、電話を鳴らすかもしれない。

もしかしたら、あの元気な声で「ただいま!」って笑顔で戻ってくるかもしれない。

そんな有り得ない望みを頭に描く。

 窓の外のミゾレは湿った雪に変わり、更に激しさをまして積りはじめている。  

和風なくもり窓に映る雪影は、何処だか陰気臭い。

陰気臭いのは北窓だからなのだろうか、古い和風の窓だからだろうか。

いつもよりも静かに感じるのは雪のせいだろう。

雪の降る音が微かにきこえる。

雪が重なる音なのか、落ちてくる音なのかはわからない。

くもり窓に映る雪をぼんやり眺めていると、いつしか眠ってしまった。

 浅い眠りの中で、何度も彼女が出てきた。

ミゾレの中を走ってタクシーに乗り込む後ろ姿が現れる。

次の瞬間、見知らぬ男と親しげに楽しそうにどこかの店で食事している。

ひろみは、自分の横の席に座っている私に気づいていないのか、無視しているのか、全く存在していないかのように振る舞っている。

何故か私のまわりだげが音がない。

私が「一緒に帰らないか。」と平静を装って振り絞るように声をかけた。

笑顔で振り返り、「先に帰っていて。」と言う彼女の目の奥は笑っていなかった。

 その瞬間に目覚めて「うおーっ!」と叫びつつ枕に顔を埋める。

激しく息を切らせて身体は発熱と戦っている。

タオルで全身の汗を拭い彼女の軌跡を追うように居間から窓の外を眺める。

ひろみを乗せたタクシーが停まっていたところは一面真っ白である。

空はグレーな雲に覆われて暗い。

激しく雪が振り5センチほど積もっている。

時計を見ると、あれからまだ2時間しか経過していない。

身体が怠くて、身体に力が入らない。

ベッドの端に潜り込み小さくまるまる。

深い呼吸を繰り返す。

遠くで汽笛が聞こえる。

汗拭きタオルを抱きしめて、再び知らぬ間に眠りに落ちた。

 ミゾレの降るなかをタクシーに乗り込むひろみの後ろ姿が映像として繰り返しながれる。

明るい照明の下で、見知らぬ男と親しげに長椅子に腰掛けている。

眼の前のテーブルにはビールの入ったグラスが2つのっている。

洒落た洋風の窓の外はミゾレが降っている。

笑顔で楽しそうに会話をする2人は、手を握り指を絡ませている。

なぜだろう、会話は全く聞こえない。

どうやら私は洒落たくもりガラスの外から二人を覗いているようだ。

私が暗い外から激しく窓を叩く。

その時「風がでてきたわね。」とひろみが窓の外を見た。

くもりガラスを通して、一瞬彼女と目があったように思う。

 胸を締め付けられるように苦しい。

若い女性が静かにピアノをひいている。

ピアノの鍵盤をたたく指が流れるように美しく動く。

ミゾレで私の視界が霞んでいる。

すーっと意識が遠のいていくように映像がフェードアウトした。

私の意識とは反して、幽体離脱した私が猛烈なスピードで雪の積もった屋根に落ちていく。

屋根の手前 でビタッと止まる。

屋根の下が透しして見える。

激しく抱き合う全裸の男女が鮮明になっていく。

男は私の知らない若い男だ。

女性はひろみだ。

髪を振り乱し、男にしがみつく。

顎を上げ光悦な顔が覗く。

激しく絡み合う。

ひろみの目が開き私と目が合う。

勝ち誇ったような、私を見下したような笑みを浮かべ獣のような声を発して頂点へ昇りつめる。

「うおーっ!」と声にならない心の叫びで目を覚ました。

激しい胸の鼓動と乱れた呼吸と、全身汗だくの私が掛け布団を蹴飛ばした。

汗を拭い濡れたTシャツとパンツを脱ぎ捨てる。

呼吸は荒れている。

熱は下がったようだが、まだ、身体の芯が熱い。

ベッドの横においているポカリスエットを一気に飲むと、喉の乾きは収まり幾分落ち着きを取り戻した。

それでも、まだ呼吸は幾分荒れている。

全裸で大の字になっていると、やはりすぐに悪寒に襲われた。

この先どうなってしまうのかという不安と共に、身動きできないもどかしさがある。


 なぜ、あんな夢を見たのだろうか。

新たな下着を着て、珍しくパジャマを着た。

兎に角、この風邪だけは治してしまいたい。

地方と地方の遠距離恋愛というのが、ネックだということもわかっている。

「温泉に行こうか。無理やり汗をかいて治してしまおう。」
そう思い、パジャマを脱ぎ捨て服を着る。

ダウンを羽織って外に出た。

大粒の雪がまだ激しく降っている。

10センチほど積もっている。

風に乗って、潮の香りがする。

なごり雪とも言えるこの雪は、すぐに消えてなくなる。

部屋の前に駐車してある車のフロントガラスとボンネットの雪だけを落として、車に乗り込む。

 
 この町は、沢山の温泉がある。

海に突き出す山の麓の温泉へ向かう。

昔から市民に親しまれている温泉は、最近の私のお気に入りだ。

時代を感じさせる、ゆるやかな時が流れる温泉だ。

いや、この町がレトロな少し前の時代を感じさせる。

本来ならば、市電で行くのが尚の事情緒がある。

転勤族である私にとっては知り合いのいない町。

ある意味都合のよい町なのだ。

気兼ねなく過ごせる。

人の目も気にならない。

一人とは、そういう良い面もある。

 熱いお湯に浸かり汗を流す。

いつもはカラスの行水の私が、体の芯の熱を汗として追い出すまで熱い湯に浸かる。

熱いお湯に浸かり熱と戦うが、やはり頭の中はひろみのことで一杯だ。

彼女に気持ちを確認すれば良いだけなのだが、それができない自分が情けない。

女々しいのだろうな。

人には色々と言えるのに、自分のこととなると何もいえない。

広い温泉の中の客はまばらである。

午前中から温泉に漬かっているのは、みな年寄りばかりだ。

風呂に浸かっている年寄が、20代の私をチラッと見る。

若い客は私だけのようだ。

まして3月末の大雪となれば来る人は少ない。

近所の年寄りだけだ。

無理やり汗を出して少し体が楽になった。

湯から上がり、水分を補給して体を休める。

そして、また熱い温泉に浸かる。

サウナのように温泉を使い強制的に汗をかいて熱を下げる。

体の芯の熱を追い出すまで続けた。

身体が楽になればなるほど、心はひろみを求めている。

いや、体もだ。

男性としての本能が彼女を求めている。

湯の中で自然に股間に手が伸びる。

「もしかしたら、熱の原因はこいつかもしれない。」

目を閉じて、静まるのを待ち湯からあがった。

 完治したかのように身体が楽になった。

身体が楽になるとあの陰気臭い部屋には帰りたくはない。

まだ完治しているわけではないので、食事をして部屋に戻る。

ひろみの姿は当然ない。

ひろみの荷物が部屋の隅にある。

奥の和室のベッドルームは、やはり陰気臭い。

空気も淀んでいる。

ストーブをつけつつ、窓を開けて換気した。

部屋に散らばった汚れた下着を洗濯機に入れると、病原菌を退治したような気分になった。

昨夜まで数日間ひろみと一緒に寝ていたベッドへ潜り込む。

ひろみの瞳、唇、指、全ての部位が脳裏を駆け巡る。

目をつぶり、ひろみの匂いをさがしている。

毛布の中に彼女の匂いが微かに残っている。

服を全て脱ぎ捨てて、全身で彼女の残存を求めている。

毛布に包まれて、ひろみの全てが走馬灯のように頭の中を流れていく。

激しく鼓動し、体に電流が流れる。

放心したまま窓の外を見た。

雪がやみ、薄日がさしていた。

薄日に吸い込まれるように眠りに落ちた。




つづく







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