忘れな草
ひろみの平日の日常は、仕事を中心としたサイクルで一日を過ごしている。
いや、過ごしていると言うよりもこなしているという方があっているように感じる。
まるで業務のように1日のサイクルをこなしているのだ。
そこに感情はない。
あるのは、日常の業務化でしかない。
その業務化された中で心だけはいつも別のところにあった。
剛とのことをずっと考えていた。
剛と付き合い始めてから、日記をつけている。
初めは、簡単に何をしたとか、どこに行ったとか、メモ程度のものだった。
そこに、少し季節のことを書き添えるようになった。
桜の開花、鳥の初鳴きを聞いたとか、新緑の季節になったとか、その一言を加えるとメモがより一層一枚の絵として心に残るようになった。
そのうちにその時の気持ちを一言加えることで、日記となったと思う。
剛がこの町にいた頃の同じ日付の日記を読み返してみる。
その日だけを読んで翌日のものは楽しみにして取っておこう、とはじめに決めたのだが結局のところドンドン読んでしまう。
そして、そこに書かれていなかった些細なことを思い出し、一人でクスッと笑ってしまったりしていた。
剛が転勤してからの日記は特段読み返しても楽しいものはない。
悲しい、寂しい、会いたいの文字が目に付く。
せめて、日記くらいは日々の事を何か書かなくてはと思う。
ペンを持ち、日記帳を開くのだが業務的な日常に日記に書きたいと思うものはなかなか見つからない。
天気のことを書いて、季節のことを書いて、最後に二年前の昨日は剛と日帰り温泉に行ったなどと古い日記で読んだことを書いてしまう。
何かをしなければと思う。
何をしたら良いのかわからない。
一人というのは本来縛られるものがなく、自由なのだが、今の私は自由に楽しめない。
会社の同僚とたまに食事をすることがある。
そんなときは一瞬彼のことを忘れられる良い気晴らしになっている。
昨夜も職場の仲間に誘われて食事に行った。
その時、「山に登らない?」と一つ先輩の女性に誘われた。
「今は雪解けシーズンだから、ゴールデンウィーク過ぎたら低い山に登らない?多分雪はとけていると思うんだ。」
剛が転勤する前は時々登山に行った。
山など学校行事以外で登ったことのない私は、イヤイヤながら剛に半ば強制的に登らされた。
登ってみると、山頂からの眺望に心が解放されるような感覚になった。
色とりどりの花も咲いている。
ここ1年ほどは山には登っていない。
誘われたし、家で一人くすぶっているのも良くない。
久しぶりに登山をしてリフレッシュすることにした。
皆との食事を終えて家に帰ると、靴とザックやレインウェア等の登山用品を出してみた。
靴を出してみると、「トレッキングシューズじゃなくてさ、ちゃんとした登山靴の方が良いから。」と剛が登山の度に言っていたことを思い出した。
この際、思い切って登山靴を買うことにした。
剛のおすすめのメーカーの中から素敵な登山靴を選びたい。
最近はメールばかりで電話をしていないことに気がついた。
以前は毎日電話をしていたのにね。
久々に電話をかける。
窓の外は街灯のついた街並みが見える。
窓ガラスには自分の姿か鏡のように映っている。
「笑顔、笑顔」そう思っていると、元気のない落ち込んだような声で剛が電話に出た。
「元気なさそうだけど、大丈夫?」と声をかけてみた。
「俺さ、今の仕事嫌いだし転勤族っていうのも好きではないな。会社の人間も嫌いだしね。」といきなり暗い話になってしまった。
「また剛のところへ遊びに行くから。」
「いつ来んの?明日来てよ。」
「私も仕事があるし、すぐに行けないのわかるでしょ。」そう答えつつ、またこの話になるんだよねと思ってしまう。
どうして私は彼のところへ飛び込んでいけないのだろう?
受け身なのだろうか。
電話ではもう一緒になろうとか、籍入れようよとか簡単に言ってくるけど、どこまで本当なのかわからない。
正式に、いや、ちゃんと真剣にプロポーズしてくれればすぐにでも行くのだが、面と向かって言われたことは一度もない。
彼が心底結婚したいと思っていないのがよくわかる。
この会社にずっといることも考えていないのだろうな。
電話の向こうでは、また仕事の愚痴をこぼしている。
「うんうん。そうなんだ。」と我慢して聞いているが、聞いている私まで気分が悪くなる。
それで電話をすることが減ってしまったのだ。
窓に映る自分の顔を見て、極力笑顔をつくる。
「もう少し楽しい事を話そうよ。」というのだが、1日の大半を会社で過ごしている剛には、なかなか難しいようだ。
仕事を変える事を真剣に考えても良いと思う。
窓に映る自分の姿を眺めながら話をする。
極力笑顔を作って楽しそうに話し始めた。
「あのね、よしえ先輩と登山に行こうと思うんだ。昨日誘われたの。それで、この際だから登山靴を買おうと思って。剛にどのメーカーが良いか聞きたかったの。」と極力明るく振る舞った。
「登山か、良いね。靴はトレッキングシューズだったもんね。買うなら、縦走出来るしっかりしたもので、自分の足に合っていれば良いよ。
少し、大きめのサイズを買うと良いよ。」
そう助言をもらった。
あとは不安であれば店員さんに聞けば良いのだ。
その後の電話の剛の口調から、彼は間違いなく会社を辞めるだらうと思った。
会社の人間も会社も、全て敵とみなしているように感じる。
気持ちを変えて働くことが大切なんだけどな。
会社を辞めてしまったら、剛のもとには行けない。
お金が入らないということは生活できない。
そういうことを理解していない剛が子供に感じ始めている。
彼はただ今の仕事から逃げ出したいだけにしか思えない。
何をやりたいのかはっきりしない彼が仕事を辞めるとドンドン悪い方へ流れていくのではないか。
電話を終えて暫くマンションの窓から町の灯りを眺めていた。
窓を開けると、冷たい空気と共に春の匂いが風に乗って部屋の中に入ってきた。
もう少しすると牛糞の匂いの季節になるのだ。
不思議と嫌な匂いではない。
剛の住む町に行ったら、潮の香りがする。
今度、剛と町の灯りを見に行こう。
今の彼の心にはそんな余裕もないだろうな。
つづく