
多摩川の生き物とヒト その258 旅 佐川 しまなみ海道へ その3 ‘24/10/30 奈半利から佐川を経て砥部まで
佐川へ行く前に土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線(阿佐線)の鉄印を求めるために安芸に寄った。安芸駅は道の駅と併設されていて、改札口を出るとすぐに道の駅に出る。
美味しい弁当やパン、地元のリュウキュウなどの野菜や魚などがある。花の形をした根付と美味しいカキを求めた。土佐くろしお鉄道は1時間に2本ぐらいあり、先の御免でJR四国の土讃線と特急などと接続し、西日本の切符も売っている。DMⅤにより、阿佐線と切り離し、盲腸線になった土佐海岸鉄道とは違っている。






高知まで無料の高規格道路を利用する。今は分断しているが、やがては高知まで繋がると思う。ローカル鉄道にとって、高速道路は脅威であり、天敵である。
御免を過ぎたあたりから土佐電鉄から経営が変わったとさでん交通の路面電車と並走。新しい連接車や古い電車が通り、まるで路面電車の見本市。ダイヤモンド・クロスでトリプルクロスが見られる交差点を過ぎ、日本三大がっかり観光施設の一つ、はりやま橋を見た後、鏡川を渡る橋から電車と別れ、佐川へ。
`23年10月と新しくできた「まきのさんの道の駅・佐川」へ行く。牧野氏関係の本などが多く出ているのかなと期待したが、特に無し。パンやソフトクリームなどを売っていて、普通の道の駅。























佐川駅近くを通り、地場産センターに車を停め、牧野氏の生家を探す。町役場までたどり着き、行き過ぎたのに気付く。歩いている方に場所を尋ねると、その方はなんと、牧野氏の生家の後にできた牧野富太郎ふるさと館の職員の方だった。生家で子供時代の部屋の一部は復元され、博士の業績の紹介や学んだ本などが展示されていた。勉強机などがあったが、貧乏だった牧野氏の様子がわからない。少し物足りなさを感じながら、牧野氏の墓がある牧野公園へ向かう。通りには司牡丹という作り酒屋がある所を進む。まるで、工場の中に入っているようでゴホッというパイプの音がし、麹の臭いがする。
途中には旧浜口家住宅という旧家があり、ぶらりと立ち寄る。ここでも牧野氏のいわゆるグッズもあった。しかし、牧野氏のグッズではなく、地元産のジャムなどを求めた。この旧家には狭いながらも庭園があり、屋敷の大広間から眺められるようになっている。キバナアキギリなどが咲き、コケも美しい庭園を抜けると、牧野公園の近くだった。ただ、残念なのは旧家の隣にロ481という旧国鉄の木造客車が置いてあった事。何という失態。
青山(せいざん)文庫や賑やかな保育園を見ながら、坂道を上る。それもそのはず、ここは昔、佐川城と言うお城だった。ヘヤピンカーブを3回ほどめぐり、道の奥まった所に牧野博士の墓があった。大きく立派な墓だった。墓への入り口には奥さんの壽衛子さんをねぎらうスエコザサがあった。博士の地味な性格と違う立派な墓と相まって、壽衛子さんと一緒になっていないのが少し悲しい。
少し上がった広場でお昼。東屋で安芸で買ったパンやちらし寿司を景色を見ながら食べる。かなたには土讃線も見え、中井精也さん風に遠景で撮る。道端にはノジキクなどが植えられ、花の公園となっている。自生地に行けない人にとっては植物園のようになっている。
きっと素敵な書がある青山文庫を後にする。道中、博士が新種を見つけた横倉山を見る。佐川からここまで4㎞。幼い牧野氏はここもフィールドにしていたのかと思う。
仁淀川の広い河川敷や景色を見ながら、大渡ダムを経由し、44番札所を通過。地図上では小さな町かと思ったが、町役場もあり、にぎやかな所だった。行ってみないと、賑わっているかどうかなどはわからない。
大きなトンネルを抜けたら砥部町だった。ネコがお腹が空いているのか、ニャーと鳴き、非常になつこいネコがいたのが砥部焼観光センターだった。トイレも陶板を張っているなど、砥部焼は白を基調とした普段着の焼き物。もっと、いい物を買えばいいのに思ったが、家にある続き物をなどを買う。



近くの浄瑠璃寺へ。道を挟んで隣に宿はあった。宿の長珍屋さんは売店には金剛杖などのお遍路用品しかないなど、お遍路さん専用の宿である。夕食時、聞き耳を立てなくても、お遍路さんが二人いて、旅の苦労を話していたのが聞こえてきた。宿が無く、困っている様子だった。
久しぶりに大きな風呂に入り、疲れを癒した。
明日はいよいよしまなみ海道で、予報とは異なり、晴れそうで楽しみ。