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崋山と松風の邂逅
無言で「冨峰驟雨図(ふほうしゅううず)」(渡辺崋山作(*1)を見入る二人。
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ここは静岡市美術館 「東海道の美・駿河への旅」の展示室。
ヨシコはいたく感動したようだ、「冨峰驟雨図」の少々物悲しい風情が侘びなる美的な感情を発露させたのかもしれない。
落款に「冨峰驟雨図 画為松風老人 時天保甲午龍潜月 崋山外史登」とあり、松風老人なる者の依頼で描いたと読み取れる。
ヨシコ
“松風老人って誰?”
クニオも初めて聞く名だった。
“これは探ってみる価値がありそうだね”
桜の開花予想が始まった、TVではすでに駿府公園の花下遊楽の光景を伝えている。
駿府公園は春の陽射しにあふれている。そこには「冨峰驟雨図」を胸に抱いたまま、芝に寝ころび語り合う二人がいた。
…… 時は春 (ρД-)ねむーい …… 心地よい春陽が 徐々に 二人を夢路に誘う
ヨシコ
“崋山には山水画の遺作は非常に少ないと言われているらしいわよ!”
西洋画に学んだ写実性や陰影による遠近法の探求と表現に打ち込み、独自の世界を築いた崋山にとって、山水画は観念的という考え方があり山水画を否定していたという。
崋山の山水画に対しる考え方は、弟子の椿椿山にあてた手紙「絵事御返事」の中の「山水空疎」という言葉がよく知られている。
中国由来の水墨画は画題に制約がありどうしても形式的・様式化に陥りやすい、山水画はいまだ見ぬ憧れの中国の風景を描かざるを得ないため、空間把握があいまいとなり、写実性もおざなりになり易い傾向があった。
どうも、山水画は観念的な表現に陥りやすかったようだ。
“崋山って、きっと、プラグマティスト的な人だったんだね“
“そうだね、だから、おおらかではあるが、ゆるい筆致のあいまいなになりがちな山水画を受け付けなかった”
だとしたら、なぜ松風老人のために山水画を描いたのだろうと疑問がヨシコの脳裏をよぎる。
その点関して興味深い指摘がある、下記の「冨峰驟雨図」の作品解説を読んでみよう。
水面に浮かぶ小舟には、集落へと急ぐ漁夫が見える。描かれた黒色に目を凝らすと、その人物は、自然に立ち向かう人の姿を観る者に思い起こさせ、空想上の風景でないないことを感じさせる。上空に浮かぶ霞は遠近感を表出することに役立っている。
“空疎ではない、観念的な山水画ではないということだね“とクニオ
“そうか……崋山の学んだ画法と工夫で崋山流の山水画を描いていたってことだね”とヨシコ
山水画といえども、あくまでも写実性にこだわる姿勢や、西洋画研究で得た陰影法の跡が見いだされる点が如何にも崋山らしい。
“松風の依頼で描くってことは、崋山とどんな縁(えにし)があったんだろう ……”という次の疑問がヨシコの頭を持ち上がる。
天保四年、江戸家老の要職にあった崋山は江戸を出立して、田原を訪れている。
この時、後に崋山十哲の一人と言われる福田半香が画弟子となっている。
半香は、掛川藩のお抱え絵師にして遠州画壇の中軸として活躍した村松以弘に学んでいる。さらに以弘は崋山に学び、崋山の絵の師匠である谷文晁や崋山の儒学の師である松崎慊堂との交流もあった。そして松風は以弘に絵を学んでいる。
“そうか 文人墨客ネットワークの縁でつながっていたのか”
“この時期、掛川藩は学芸文化の府として、文人墨客が集い切磋琢磨していたからね”
その渦の中心に松風はいた、残された疑問である“松風のために絵を描いたのか”も文化ネットワーカーとしての松風の人柄が関係することになる。
藩主の信頼も厚かった崋山は40歳にて家老となり、困窮する藩財政の立て直しに奔走するなどし、心労は絶えなかったと推察できる。
“唯一の楽しみの画業に専念することもままならず、心は乾ききっていたのかもしれないな”クニオは崋山に寄り添うようにつぶやいた。
“そんな時、松風老人と出会うことになったのね”
松風老人に興味をそそれれるヨシコ。
松風は書画愛好の風流人、東海道を行く雅人で掛川を過ぎる時、大庭家に立ち寄らない者はなかったというほどだ。
遊芸・文化人サークルの主催者、東海道筋のネットワーカーと言っていいかもしれない。
また松風はその書画蒐集においても有数のコレクターと言われ、書画を数百集め、家を美術館にしていたと言われるほどだったという。
クニオ
“松風老人は遊び心のある人、すこぶる数奇な人にして、人を包み込むおおらかな人だったのかも!”
“親しく松風老人と言葉を交わす中で、家老として田原藩のかじ取りに腐心し心労を重ねていた崋山の乾いた気持ちに変化が起こったと思わないかい?”
ハタと膝を叩くクニオ、何かインスピレーションが舞い降りたようだ。
”松風は崋山にとって、いささか大げさかも知れないけれど「無明長夜の灯矩なり」と感じられたのではないか”と二人の関係性を想像する。
“なーるほど 秋風老人 灯矩(あかり)説か …… ウンウン “とうなずくヨシコ
掛川での松風との邂逅は、崋山の心に明かりをともした、だから天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、藩内から一人の餓死者も出さない藩政の運営に手腕を発揮できたのかもしれない。
ほっこりと微笑み、春陽の夢路にまどろむ二人……松風老人と崋山の姿は何処!……すやすや、グーグー。
崋山と掛川の縁、崋山と松風老人の邂逅 …… 素敵な夢路の物語でした。
(*1)冨峰驟雨図(ふほうしゅううず)
富士山の山頂に雪が積もり山腹より山麓にかけて雲海が樹木や家並を覆って激しく雨を降らせている、この情景を崋山は墨一色で濃淡をつけて描きあげ、遠近感を出している。