運用と定義の関係における大事
定義が曖昧なままに流行やら風潮、選り好みのままに用語の氾濫が起こると運用上ですらも困ったことになる。
まず、大して困らないけれども変な事例をあげてみよう。
「サーキット場」
誰が何時この訳語を与えたのかは知らないし、相当の権威?とかの仕業やらなのだろうけれども…
恐らくは「競技が開催される場所」という意味でワザワザ後付けしたのだろうし、海の向こうでは<〜Motor park>やら<〜Circuit land>などとされるからなのかも知れない。
しかし、サーキット(circuit)とは、そもそもが「回路」という意味でありそれそのものが「場」であることは明確で、サーキットと呼ぶのは「周回路形式」の競技場や開催場所であるからに過ぎない。
もし付けるならば「園」ではなかろうか…遊楽の場であるし人工的作為的に作られたか調整された場所であるのだから、一時的に置かれるやら執り行われる処という意味合いも小さくない「場」は少々不適当だろうと思う。
まぁ、「園?なんか軽くてカッコ悪くねぇ?」…現代人ならばそう思うかも知れない。
しかし、その意味合いが解るならば「サーキット場?言い回し可笑しくねぇ?」ってことだ。
競技場であると示したいならば、周回路競技場、周回競技場やら周回場でよいではないか、それがカッコ悪いというならば英語同様にサーキットで良く、文脈中に競技場と分かる表現を用いれば尚良いだけだと思う。
この様に近現在において困るのは、主には趣味や娯楽の領域であろう。
何処かの誰かが遣い始めた言葉がいつの間にか定着し用語的になったものの、本義とは異なる用法が氾濫し、或る人はAの意味で…別の人はBの意味合いに…将又AとBの意味を曖昧に混用して誤解を招くことも少なくないだろう。
これを「文化とはそういうものだ」としてしまえばそれまでなのだが、その淘汰論の中にもそれなりの配慮は必要であろうし、出来ることならばより洗練されて遺る方が好ましかろう。
因みに、前例した「サーキット場」は極狭い範囲の業界では確りと「サーキット場」と用語定義されており「その通りに使わねばならない」とされるが、一部の文献雑誌テレビなどでは使われるものの今では一般的とはいえない。
本義や定義に無理があるのだから当然ともいえるが、未だに「そう使わねばならないのだ」と固執する場合もあるのだから失笑モノだと個人的には思う。
つまりは、運用上(或る意味で合理的に)定義が半ば無視された例でもあり、経緯や様々を確りと勘案しなかった例ともいえよう。
カタカナ語に纏わる不都合や不合理に誤解語弊は、以前にchatGTPの記事でも触れた通りで根本的な不理解から生じたものも多く、専門性や学術性の高い分野では根本的な間違いにも繋がりかねない事が懸念されよう。
であるならば、短絡的にカタカナ表現に甘んじずに訳語を与えるか、より正確に期さねばなるまい。
運用が煩雑で非合理でありながら用語などを心象的操作的に利用する例として代表的なのは、政治が関わる法令上の事であろう。
中でも我が国においては異様に複雑で困った存在の代表例でもあるのが「税制法」ともできる。「旅館の増築」に例えられるほどなのだから、本当に困ったものだ。
本法と附則関連法の建付けが「確りとした建前も哲学も無いままに都合された結果」としてそうなってしまったのだろう。
控除やら附属する助成補助に手当金制度まで含めれて思えば、最早素人には何がしたいのかすらも判らない歪さの煩雑ぶりだ。
公平性や平等性を語る上で必ず問題となるのが「閾値」といえる。
区分を規定する際にどうしても生じてしまう問題でもあるが、良く云われるのは「103万円の壁」に代表される所得税法上の扶養と控除の関係性や、累進課税などの問題だろう。
単純な算術を用いれば明確な閾値問題が生じるのは当然で、それならば複線的に線形関数化するだけで解決可能ともいえるが明快ではないというわけだ。
根本的には明快どころの話ではないのだが、表面的な事は支持にも繋がるし見かけ上だけの単純さは誤魔化しもし易いのだろう。
しかし、その根本は他の多くの社会制度との兼ね合いであるから、税制を定める以前にそれらが明解で無ければならないことも前提となる。
これを踏まえない見かけの税制こそが、ご都合的な運用による煩雑な問題ともいえる。
その本質は、「税制が単純明解(シンプル)に設計されていないから」ではあるが、利害闘争の問題もからむから合理化し難いのかも知れない。
無論のこと、皮肉である。
それこそこんなものは統計的に線形関数化できる問題であるし、数式で扱うほうが他との関連性も明確にできよう。
この運用上で最大に問題となるのは、法改正とそれに係る労力の分量とも言い換えられる。
何かするたびに議場に持ち込み白熱ぶりを演出するだとか、見え難い所でササッと都合してしまおうという魂胆が垣間見える。
ともすれば、そもそも本則たる本法そのものに税項目や税率を規定して良いはずもなく関連法制もまた同様であるが、官僚行政におけるマキャベリズム的問題からも閣議決定を経るものだとしても附則的な通達や省令などでも又、多くの問題を生じかねない。
これらは、コロナ禍とやら称される「5類化論争」から「ガイドライン策定」まで様々に表面化して良く見えた通りで、責任回避と実益の諸問題ともいえるしその根源は人事考査などにまで至る「無謬性問題」にこそ有るだろう。
とはいっても、民主政体を採る国家の根源でもある予算の原資たる税に関して、筋の通った整合性に乏しいのは大問題といえよう。
よって、税率変更を前提に考えた本法附属法の設計がなされねばならないのは当然のことで、その思想哲学の根本は社会制度上の各法令とその基になる憲法となるはずだが、現状は私には話が逆に見える。
無論のこと、皮肉である。
現状の憲法下における法制の下の、自助・共助・公助の基本施策を前提とした設計すらもなされていない様にも見える…というよりもほぼ政商と人事問題にしか見えないからだ。
判り易いのは年金や医療補助であろう。
(我が国の法制における)年金はそもそも保険であるから貰わずに済む人がいても当然であるはずが「払ったのに貰えないのは不平等だ」と云うし「現役時の所得に比例しないのは不公平だ」とも云われる。
保険料を払って還付が貰えないと怒る人があるだろうか?
利回りを配当したり、満期時や定期的に還付がある前提の保険商品ならばいざしらずも、掛け捨ての保険に文句を言う人もないだろう。
年金法は、其の概念からして曖昧であり(保険的給付計算以外の面においては)不合理極まりないのだ。
「年金」と云いつつも失業保険かのような体裁を採りつつ「恰も年をとったら定額支給される厚生」のように偽装したキレイゴト然であるのが根本的原因だろう。
そもそも年金とは、本義からすれば保険制度ではなく恩給にも似た「対象者に年額で支給されるもの」なのだから、保険制度を基本として良いはずもない。
財源都合とそれに纏わる某のためにせっけいされた、と見られても仕方のない制度設計といえるだろう。
保険料や給付の額面都合やら破綻がどうのという論争が、本質的には正しい線上からかけ離れているとも言い換えられるだろう。
天井知らずの福祉に纏わり邪な政商を働こうとは、大した不届き者ではなかろうか…
医療補助なども同様で、本質的には「一般には高額過ぎて支払えない医療に対する補助」であるのだから、払える人が給付を受けるのは何ともいえない本末転倒甚だしい余得である。
ここには触れないが、制度に纏わる医療関連業界の余得も又大層なもので、解りやすい例は「医薬分業」やレセプトに纏わる健保の話だろう。
大概のキレイゴトの裏には余得や野心が見えてくるのだから、良く考えねばなるまい。
失業保険(雇用保険)に類する手当給付も同様で、本質的には生活に困らない人まで貰える「権利」ではないはずだ。
支持を得るために定義も曖昧で、(誤魔化しどころを増やすためになのか)設計も疎かにしつつ、思想も哲学も反映されない運用なのだから、全く困ったものだ。
これでは、小賢しく得をしたく損をしない事に固執する人ばかりが恩恵に授かりかねない。
運用を確りと考えた上で施策施行し、常時それを見直すことが如何に大事なことであるか…
蛇足ではあるが、私個人は高額医療費給付も失業保険も、資格ある状況にこそ何度か出食わしたが一度も受けたことがない。
一般に見れば可也の額を損しているし、その分の消費性向にも貢献していない事にもなるが、制度の不備を利用して儲けても仕方がないと考えるからである。
確かに、反証的に不正に抗議するやり方もあろうが…
ただし、対象国民全員に各自に確定申告が義務化されていない所得税に纏わる控除の類は受けてしまっている。個人的に、これにはどう対処すべきか悩むところでもある。
その場その場でのご都合やら好き嫌いに、単純な支持の多い少ないで物事を決めてしまうとろくな事に為らない事が少なくない、ということだろうと思う。
思想哲学も、それを前提とした建前も、用語の定義や纏わる運用も、何事をするにも大事にせねばならないという事だろうと考える。
これを前提としてみれば、煮詰まらない議論に甘んじての多数決などは困りものであるし、今次のLGBT理解増進法やら身近であるべき税制関連法などは困ったことばかりだと辟易しかねない惨状だ。
何も、あれが悪いこれが良くないと言いたいのではない。前提や過程に問題が多過ぎ、事が成り立っていないと言いたいのである。
欧米を中心とした世界では、ルールは利用するため(又は自分たちに都合悪く利用されないため)に作る、のが常識である。
とはいえ、それですらも建前を尊重しつつ思想哲学の下に構成したように装い、それを自らの正当性の糧とする。
私は欧米人ではない。