夢って何よ?

夢を勝ち取るやら叶える、などという人々の云う「夢」というのは大概が夢ではなく想いや願い、又は単なる夢想に過ぎない。

単なる夢想に過ぎない場合とは、心理的要因に傾注して現実性を度外視したり忘れているものだろう。
想ったり願ったりするからこそ、具現化を試み実現に励めるのだろう。

人間というのは所詮は馬鹿だから仕方がない側面もあるが(私など莫迦の内の下の下であるが)、兎角人間は正負の別はあってもキレイゴトに騙されやすいものなのだろう。
単純な直言には共感共鳴し易いが、そんな心理的作用に過ぎないものを信じるだとか思い込んでは危うい。
真っ当な心理学や脳科学は別にしても、社会学的方面にはそれら作用を利用した単純に思い込まされる仕組みが少なくない様にも思える。
原理は成り立っていたとしても、そこに作用する様々が周辺環境や経験も含めて普遍的ではないのが人間であるのだから、大別類型には一時的にしか当て嵌まらないことが少なくない。

多くの詐話や騙し事には、大概「普遍的価値観」という素頓狂な物が基礎的に語られるが、これこそが騙しのキーの一つであろう。
人間の仕組みは、反射的なものを直感や理性的判断と思い込みやすく出来ているのだから、これは悪用されるし自分を見失う要因にもなりかねない。
その事を指摘し注意喚起するならば兎も角も、逆用して流行らせようという社会学系統のモノは少なくないが、資金が必要であるから故だろう。
人をま弄んで興じるとは、実に悪趣味この上ないではないか?

世界平和なぞという大言壮語がその代表例で、これを多く語る人ほど「現実的な平和の実現とは何か」を抽象概念的にしか捉えていない事が少なくなかろう。
勿論、思い描く夢、という意味合いで語るのは全く悪いことではないし、そうであるならばそれは「勝ち取ったり実現するモノ」ではなく思い描く夢の過程で具現化すべき事象に落とし込む根源となるものだからだ。

それは「夢を思い描き、その過程で想う事や願った事をこそ実現しようとする」事に結実していくのではなかろうか。


何処の誰が <Dream> に安易な形で「夢」を対訳させて陳腐化させたのかは知らないが、夢は叶えるものではないだろう。

大網敵わす夢潰える、などと表するように「夢は望みの元」なのだ。


さて、私が小さな頃には…

地球は寒冷化が進み…

エネルギー資源は枯渇し…

倍増する人口に食糧危機が蔓延し…

地下か海中、若しくは宇宙に住むしかなくなる…

などと(一部には)真面目に語られていた。

語られていただけでなく、そう教わった方々も多くあるだろう。

確かに、氷期に向かうのは周期上間違いではないし、エネルギー資源にも限りはあるし、同じく食料生産にも枠的な限界はある。
だが、少し地質や天体物理に知識がある者が聞けば(当時でさえも)「バカバカしい」とすぐになる程度の低水準な詐話に過ぎない(かった)。

良く知られるローマ・クラブによる「成長の限界」に端を発しているともいえよう。

この様な言説が流行したのは、世界経済が冷め始めた時期から横這いの頃で、歴史を見てもそうした時期には終末思想的なものが流行してきた。
我が国では一部の仏教宗派の起源などがそれであろうし、世界的に見ても碌な結果を生んでこなかった。
単純に言えば、邪な輩が考えそうな悪どい商法としての利用を繰り返されて来たし、中世以前の昔からそれらには風説の流布が用いられるのも同様だった。

この「成長の限界」あたりで流行した大衆文化の成れの果てこそが <world peace> 世界平和であったろう。
同時に、抽象度を高めたフリを装って人々を騙そうと試みたのがポストモダニズムでもあったろう。

現在では、それらには原理に乏しいどころかそもそも皆無かデタラメで、論理構成の過程でも「抽象性」を謳っては摂理や慣習的なプロトコールを無視していただけだ、と一般にも帰結されるが、内戦やら独立戦争華々しき頃からオイルショック後までという悲壮感主体の世相には流行りやすかったのだろう。
寧ろ、狂信崇拝して暴徒と化した団体が目立ったほどだった。
悍ましい。


石油がどうして出来たのか、は、地質学的にも分子物理的にまでもほぼ解明されており、その過程を逆算すればその埋蔵量は(取り出して利用できるかは考えねばならぬが)、少なくとも数百年、数千年以上という試算も成り立つしこれが科学的一般論である。
だから当時から途方もなく馬鹿げていた。


では何故流行ったのか?


極単純に言えば「数理統計的詐欺」という手法を使った。

騙されやすい単純なグラフでの線形比較による稚拙な騙しであった。
石油消費量の推移を折れ線グラフにして傾き傾きを図示、試掘による推算埋蔵量と比較して「この延長線で増えれば」というやつであるが、フツーは兎も角としても普通には騙される異様さは有り得ない。

最大の問題点は、地質物理的推測埋蔵量ではなく試掘から推算した埋蔵量を基準にした点であろう。
簡単に言えば、それは埋蔵量ではなく「掘り出したい量」に過ぎないし、その掘り出したい者は石油メジャーに過ぎないのだから、根拠に成る成らない以前の問題だった。

また、単純な人口推移のピークに近い傾きの延長線を増加予測として追い打ちをかけ、大家とされる専門家に語らせ資金を国際的に都合して国際機関に発表させたが、食料生産量も生産の技術的進歩や保管流通方法の事をほぼ考慮していない杜撰なものでもあった。

その提言によれば、何十年も前に石油は枯渇し、現在では飢餓が蔓延した殺伐とした世界の人類状況で無ければならないが、消費量も人口も増えているのに何方も起こっていない。

ただし、皮肉な言い方をすれば、その暴論を呈した側の人間は「夢を叶えている」といえるだろう。

なぜならば、科学的根拠どころか確りとした統計すら無い大気中の二酸化炭素濃度を温暖化の原因と一方的に決めつけては削減を提唱し続けているが、それを反証しようという試みは汎的にツブされる「ご時世」の醸成をこそ成し遂げたのだから、これほどに非現実的で抽象的にも過ぎる「実情を実現させた」のだからだ。

夢想に過ぎない事を、彼らの大網の為に彼らが夢見た周辺装置として実現させたともいえよう。

凄いねー夢ってー。


で、何が叶ったのか…

悪徳的な国際的政商により、極限られた一部の辺りが篦棒に儲けることの出来得る環境をほぼ実現させた。

凄いねー環境問題ってー。


ただ、これは逆説的に捉えれば、悪夢という夢から生じた邪な具体論を実現した欲望や願望の結実なのであるから、何処のどの辺りがやっているにせよ「彼らによるスペクトラムの様なモノは、着実に具体化論を体現してきた」ともできる。
悪い意味での嘘から出た真然であっとしても、それらをほぼ無根拠ながらも信じさせる為の手立てを広範に用いたのだから、多少姑息の繰り返しではあるが狡賢いではないか。

そして、一般化する過程では、人格形成すらも途上である思春期は愚かそれ未満の者までにも「既成事実かのように教え込む」という教育手法にまで及び、見渡せば能く能く儲けるには嘘と知っていても賛同的姿勢でなければならなくまでにした…

様に、私には見えなくもない(笑)


その過程で採られた手法は主には二極化、正解と間違いだけを強調的に教え込むやり方であったろう。

我が国では、学齢に至ればほぼ同様に正解不正解と教えられる…の…だろう。
世には、完全な正解も単純に間違いだと決め付けて良い事象すらも乏しいというのに、殆どの事を正解不正解で教わる。らしい。

前期初等教育までは、それで致し方ない部分も多いし或る程度は結果を一般化してもよいだろうが、中等教育に差し掛かる辺りから高等教育に至ってでさえも「単純な正解」があるのは実に悍ましいではないか。

論議の余地を生まないのだから、議論のしようもない…

世を決め付けろ、としているのと変わらないのだから、非建設的に為らざるを得ないし攻撃排他的になっても致し方無い様にも思う。


で、私個人は「夢を叶える」という本来は異常である日本語を普及させたのも又、そうしたスペクトラム領域での業ではないかと感じざるを得ないし、その出発点は歴史的仮名遣いの廃止による現代仮名遣いとやらの普及にも有ったように感じる。


ま、カタカナ語やらのイイカゲンな文化論と同じく、どーでもいーっちゃぁどーでもい~のだが…(真顔)


浮世において、好き嫌いやら共感同感に感嘆尊崇などで判断し現実を見ないかの様な実現性度外視であるのは、多数多方面に軋轢を生んだとしても夢見た想いや願いの実現などには近付き様もなかろう。
同じか違うかしか無いのだから、自明であろう?


英語で言う <break through> に必要な気概やらはあるだろうが、それは大言壮語すべきことでも他言して広めることで適うことでもないし、そもそも打ち破る「壁」が具体的にハッキリと見え始めてから突破するものだ。

つまり、それならば技術的問題であり思想思考的問題ですらない。
順序が完全に間違っている。

また、現実を直視すると云っては逆打ちばかりをするのも又非現実的で、反射的に対抗しているに過ぎないだろう。

単純化すれば、大局にとどまらずも多面的に現実を捉えられずにはやりたい事が叶う訳がないという、至極単純明快な摂理に至るに過ぎないではないか。


大局から細いところまで捉えるには俯瞰しつつ様々な角度で眺めては近付いたりを反芻せねばならぬし、これをより洗練して思考に落とし込む際には複眼的に考察したうえで論理化せねば一辺倒と為るだけだ。

俯瞰的複眼視を繰り返してこそ、より正しい方向性を見いだせるのだから、それの有り得ない正解を念頭に置いた思考法では大概か間違う確率の方が高くても当然であろう。

物事を局部的に一側面でしか見ずには、幾ら考えても他人と傷つけ合うのが関の山ではないか。


つまりは、啓蒙思想から垂んとするキレイゴトによる「正しい」を教える手法とは、個人的には視野狭窄を誘発させ思考停止に追い込む為の手段の1つであろうと思う訳だ。


兎角、好き嫌いだとか信じるだとか、あの人が云っていた皆が云っている、なんてのを基点や起点とした発想なんてモノは危険この上ない。

単なる排他論に終止しかねないからだ。

が、それらに対してより二極化を推し進めようとしている様なスペクトルを大いに感じるのが実状の一端の様にも、私には思える。


恐ろしや…

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