区別と道徳的観念のどうでもいい話

昨今、電子デバイスを使っていて、indication(通知や警告などの表示)とdisplay(より広範な表示)の区別が曖昧なことに付いて行け無い😭

つか個人的には大いに不便を感じる。

なんつーか、グラスコクピット化
黎明期のボーイングからエアバスに乗り換えた、みたいのが常に起こってる感じ?(意味不明🤣)。

まぁ、操作系と表示系と通知系が、1つの狭いパネルに同居しているのだから当然ではあるが、何分にも表示形態にさえ決まった様式形式も存在せず多所で合わせようという気も無さそうだし、ま、イッカとしか思いようもないのだけれど…


むかーし昔、こんな事があったそうな…

ある航空機のオートパイロット設定計器が改修設計された時に、方位指定や上昇降下率指定の表示を小数点以下一桁まで高精度化された…が、その表示方法が誤認しやすく事故を招くことになってしまった…

ちなみに、これらに関しては当時から規格や基準が無い訳ではなかった。

一般的な感覚からすれば、アラビア数字表記の文字列は左から読むと考え(左揃えで確認するだろうとの勝手な認識で)、運行管理者は特に小数点以下を気にすることもなくフライトプラン(飛行計画書)に簡易に記述した…
「135.0」として計器に桁数と表示を合わせた表記に改修すべきを、書類作成システムが更新されなかった都合から「135」としてしまったのだが…修正しなかった。

その便のパイロットは計器が(小数点以下一桁まで設定可能に)改修された新型での乗務が浅かったこともあり、オートパイロットを「13.5」と右揃えで設定してしまった…

不幸なことに、「013.5」とは表示されずに「13.5」と表示されてしまう計器システムで、良く見れば「135.0とは違う」とはいえ「改修更新前の同系列機種では135.0ではなく135としか表示されなかった(左から読めば単に末尾に「.0」がふえただけしか違いがない)のだから」誤読し難いとは言い難かったろう。

単純な話では有るが、一般常識的に考えれば記述時には右揃え(小数点の位置や桁揃え)を意識するのが当然であるから、誤読防止の観点からは「総ての表記を同じ桁数で表示すべき」で「013.5が数学的慣習的に異様な表記であったとしても、そう記述・表記して置けば間違い難いのは当然」で立場を変えた見方ができなかった設計欠陥とさえ言えるだろう(複眼的視点の欠如)。

方位135度に向かうはずが13.5度に向かってしまい、その便は遭難してしまったのだ。

もしも、運行管理者が書類に手書きで「.0」と追記していたならば…

パイロットが確認を怠らなければ…

同時に、計器設計者が「13.5度ならば、013.5」と表記されるように些細な配慮していたならば…

この機(便)は遭難の憂き目には至らなかったかも知れない…

また、同形式の機体で別の事故も多くはないが起こっていた。

オートパイロットに降下率を設定(当該計器の脇にあるダイヤルを左右に回して数値を合わせて設定)する際に、全く同様にパイロットが小数点以下を間違えて一桁多い値を設定してしまい、その機は着陸態勢時に急降下して滑走路の遥か手前の丘の上の木に接触し不時着する羽目になってしまったのだ。
整数桁と小数点以下がハッキリと判読しやすく、桁間違いが明確になる表示機器であれば起こりにくい事故であったろう。


普通に考えれば「単純かつ無頓着な設計上欠陥に過ぎない」のだが、FAA(Federal Aviation Administration、米連邦航空局)は、そうは断定せずに多所に勧告を出して対策とした。
耐空審査などの過程での見落とし責任を追求されかねないだとか、米国メーカの航空機ではなかったからなどの、政治的な問題が有るからだったのだろう。

これらの事故を、結果からの責任という一点だけで捉えると「設定ミスしたパイロットが悪い」ということになるだろうが、「そう勘違いして設定しかねない改修以前の計器を鑑みればハッキリ判別しにくいデザイン」を採用した技術的問題は大きいし、「統一感と継承性の無い配置や表記」であれば習熟に煩雑さが増えかねないという問題も含まれる(当然ではあるが、これらの事故はFAAにも単純なパイロットミスとしては扱われていない)。

単純機械的に見るならば、最低限度の情報は(判読把握はし難いとはいえ)正確に表記されているし設定分解能が高まったのだからスペック的には向上以外の何物でもないが、多部門の技術者・管理者の配慮の意識の低さが招いた事故であるとも言えよう。

同時に、人間の処理系というのは「慣れや思い込み」に大きく左右され経験と合わさるとより弊害の強いものともなりかねないからだとも言えるが、これは「設計以前に理解されていて当然」の常識的知識的摂理でも有る(当然それは規格や基準にも採り入れられている)。

段階的より早期には表示系をデザインした処での無配慮が発端と出来ようし、その欠陥的な設計に気が付かなかった中間での管理側にも問題があるし、実際に操作する者も操縦士を指導監督する部門も無頓着であったと言えるし、それらを司るべき外部機関が気が付かなかった事の責任性も重大だ。
一言で言えば、多方面多数の人々がテキトー過ぎた、ということとできるだろう。

一見些細であるし考え様によっては複雑で面倒とも出来るが、技術者が最低限配慮すべきこととはこういった処にこそ本質が有るようにも思う(安全基準を満たすのは当然としても、その理念を踏まえて慎重に事に当たらねばなるまい)。

セールスポイントとしては「より高精度に設定可能になり以前と変わらぬ見え方」というわけではあるが、反面で誤解やミスを招きかねない危険度が完全に見落とされていたのだから「金儲けだけで本質ソッチ除けかよ」ということにも出来る。というよりも、私個人にはそうにしか見えず給料泥棒もいいところの為体としか思えない。

何のための管理職か、導入購買担当者か、運用管理者か、教導監督者か、ということだ。

メーカーの問題と言うよりも、(カスタマーとしての)ユーザーを含むにとどまらず、行政も絡む大問題であったといえよう。

当然にも、数度のインシデント・アクシデントの報告と調査の後に対策はされたが、それこそが問題の本質で「何故事前の善処がなされなかったのか?」…

設計時に配慮されていたならば?

耐用試験時に何故見落とされたのか?

導入時に何故問題とされなかったのか?

訓練教導の過程でどうして問題視されなかったのか?

幾重にも渡る如何ともし難いテキトーさ加減ではないだろうか?グラスコックピット化が進んだ前世紀末辺りの出来事であるから更に信じ難い。

蛇足だが、問題発生より大分前の開発当初から、また運用され始めてからも危険性を指摘する者はあった。善処はされなかったが…
(実際には、メーカー側にも運用側にも審査側にも、極少数の危惧するものが居た記録もあるようだが、事前は勿論事故調査時にも大して重視されていなかったようだ…恐らくは面倒だからだろう…現代ではカネにも好評価にも人事的論考にも繋がらないからか?)

ただ、(電子デバイスとしての)コンピューター化が進む過程では、Y2K問題なども同様であったが、事前に善処が十分に可能なことが見落とされたり見送られることが少なくない気もする(大概の言い訳はコスト→極論すると経営側が責任を負いたくない回避論の正当化)。

進歩のサイクルが早く短いせいかも知れないが、それは理解り切った事であるのだから適宜補正されない事はやはり大変に異常な事だろうし、ユーザー側も大きな自己損失を負わない限りは大して指摘もしないし逆に訴訟として争う場合などは大げさに誇張したがるようにも思う。
(サイクルを早めて効率的に儲けるよりも、事故やら不測の不始末を減らせるように熟慮される方が、今にも後にも損害を被る範囲と数は減るだろうし後の進歩にもつながろう)


極論すれば、結局は個人的な勝ち負け損得での判断が過大に優先され全体的な向上進歩などどうでも良い様にも見えるし、事を荒立てて悪印象を受けるやら面倒に巻き込まれたくないというのも(個人主義的論理なのだから)大差はないだろうとも思う。

過去より便利になっているし豊かになったのだろうが、これらに似たような事が少なくないようにも思う。

全体主義的である方が良いなどは全く持って言うつもりもないし、私個人は全体主義は最も嫌な部類であるものの、己とその極近い周辺しか見ないのは根本的に良い方向性な訳も無かろう。

俯瞰的な均整均衡が重視されにくいのが問題の要因にも思えるし、そうなるのは複眼的に良い面と悪い面をみつめずに盲信するからではないか?

画一化一般化したがったり無下に合理化を一般正義的に扱うからこそ、その様になりかねないとも思えるし「正解」とやらに向う一方向性の偏向こそが抜本的問題なのであろうとも思える。
(個人主義的に、個人の正義を主張するのだから論理的にも当然の帰結であるが、これを恰も正当として扱うための風説を流布するのが拙いのだろうと個人的には考える)

と、するならば、恐らくそれは社会的な教育が起点の問題であろうし(殆どの起点は「啓蒙思想」に帰り着くと思うが)、(それを正しいとして中等・高等教育で教えているのだから)かなり根が深く恐ろしい事なのではないかとも思えてくる。
(そも、高等教育は正解を教えられる場ではなく、学術論考できる素養としての知識を得る場であり、先ずは定説的にそう見做されていることを知識として身につけ疑問を持てるようにならねば無意味であろう…既存の知識が総て正しいのであれば発展進歩はないし学問も要らないではないか…)

ここ数年は頓にそんな感覚を強く覚えることが多い。

疫病禍やら戦禍やら、その対処対応政策やら一般的感覚から考え方に報知のされ方も、連連述べたことに同様類似する気もする。
(決め付けては敵認定して叩いているだけで、本質を見ないし解決善処の方向性を見出そうとしていない→自称専門家の風説に乗っては失敗を繰り返し、誰もが責任から逃避するためにキレイゴトを引用しているように見える)


無頓着とそれによる責任の押し付け合いを無自覚なままにしているのではなかろうか?

誰が悪いだとか好ましいだとかよりも、その中間と過程にこそ要点が有るようにも思える。

無論のこと、その要点も又散在多数あるのであろうし、これを如何に均整的にしていくかだろうから、好きだ嫌いだ合う合わないこそ真の正義だなんて感覚論は諸悪の根源でしか無いようにも思えるし、浮世にはそればかりが蔓延しているように感じざるを得ない。

ま、あれよね、倫理だけではなく道徳的観念の上に立つジョーシキではない常識や良識が大事って言えば、昔には通じたのだろうね。
(倫理は多数が云っているから正義という物ではなく、道理を踏まえた精査と慎重な議論の末に確立されるものであるのに…流行っているからと早まっている様に見える)


ある程度の秩序の中にこそ道徳にしても倫理にしても常識にしても併存両立の均整が採られるのだろうし、故にも如何に本分や範疇を大切にせねばならないかという事でもあると思う。
(専門家やらが、如何に得であるからと平気で嘘をついては困るし、如何に損であるからと何も云わずにやり過ごすのは無責任極まる)

損得好き嫌いで無下に排他的になるからこそ二極化を生じて論争に終始するのだろうし、その結果として一極集中とそれへの挑戦者という構図が能率的効率的にさえ見えてしまうのだろうからこそ、一歩引いて自らの立場だけでない視点から幾重にも考えねばならないし、そこで得られた正しい方向性があるならばその反対性の論理も反証的に考えねばならないし、それを自らの中である程度反芻して初めてマトモな主張が持てるのであり議論ができるのだろうと、個人的には考える。

それらに無頓着な(単なる身勝手な好き嫌い損得論に過ぎないのだから)ユニポーラもモノポーラも二極化も、愚の骨頂ではないだろうか…

カネやら個人や局所的集団の都合で、無秩序的にそれが形成されるのであれば最悪的だろうと思うし、その一極やらそこに至る思想を正義だと決めつけている個人や集団は恐ろしいと感じるし、分別(ふんべつ)ではなく好きだの嫌いだのの感情論や心象論であるのに決めつけているとの自覚が無いのは…悍ましくすら感じるが一般的らしい…

その辺が、根源的抜本的な二極化などに至る要因なのだろうとも考えるが、ならば秩序のあり方や感性ではない知性・理性的な本当の意味での価値観やらそれらの構築の仕方、即ち社会教育から家庭教育に人付き合いやらまで含めた正解不正解という二極的な教育の問題であろうとも考える。


道徳や哲学などが欠損するからこそ分別無い区別を容認しつつその経緯を正義的としても疑問すら湧かないのであろうし、シンプルと単なる単純を取り違えるのもその辺にあろうし、思い込んでも気がつこうとすらしないのを助長しているのもその辺りではなかろうか?

均整均衡をみつつより良い方向性にしたいのか?

単に自分の好ましい世界を作り上げたい傲慢なのか?

とも言い換えられると思うが、後者には必ず風説的なキレイゴトを伴うのも又悍ましいと感じる。
(即ち、全体主義と個人主義は万人万様のはずの正義の取り扱い方を集中的にとらえる点で酷似するのだから、自方の考え方や感じ方(価値観との誤用が多いが感性は価値観ではないから感じ方とすべきだろう)と合わない他を排斥することでは大差が無いとも言えまいか…だからこそソーシャリストが自称リベラリストなのではあるまいか?それらは自由→嫌いがない世界→それを担保保証するのが権利、と誤認している無責任では?)

何故ならば、その恐ろしさを顧みること無く身勝手な正義とやらを妄信し猛進するのだから、過去の歴史上で世界征服を企んだもの達の起点と大差はないとも考えられるではないか…


まぁ…道徳心や哲学が欠落したままに結果論だけに固執したりすれば更に、自分のことは自分が1番良く分からなくなり拗らせる、ということか…
結果には確率論が並行するのだから、たまたま上手く行ったことやたまたま失敗したことを経緯を論理的に考察しないで判断することは好き嫌いやら決め付け以外の何物でもない。
この根本を捉えようと考えるには、曖昧ながらも道徳心やら過去に確立された倫理観を必要とするのは当たり前だ。

感情や感覚を価値観であると誤解したままの行動原理は、ロジカルであるほどヤベーっつー事だわな😵
でもさ…それを恰も誤認錯覚するように取り違えて正統的普遍的価値観と捏ち上げたモノこそが、啓蒙思想→共産主義→社会主義→社会民主主義思想やらで、まぁ…今のトレンドの「価値観」とやらのバックボーンとなる環境論争も背面と側面を観察した上で考察しなおせば大差ない…キレイゴトとはそういうものだ。と…思うよ🤣
















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