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ハインツ・ホリガー指揮によるシューマン/管弦楽作品全集VOL. Ⅰ


オーボエ奏者兼指揮者兼作曲家であるハインツ・ホリガーがケルンWDR交響楽団(ケルン放送交響楽団)を指揮した全6巻からなる「シューマン/管弦楽作品全集」からの1枚。交響曲第1番「春」、「序曲、スケルツォとフィナーレ」、交響曲ニ短調(初稿版)を収録。すべて1841年(クララとの結婚の翌年)がキーポイントとなっている作品である。


前述のように「3つの顔」を持つホリガーだが、もう1つの「顔」がある-それは「シューマニアーナ」としての彼だ。実際、シューマンのオマージュというべき作品も多数作曲しているほどなのだ。当プロジェクトにしても、シューマンへの偉大な愛着が全6巻すべてに満ち満ちているのを感じ取ることが出来る。全ジャケットをドイツ・ロマン派の画家カスパー・ダヴィット・フリードリヒの絵画に統一しているという拘りもよい。ライナーノーツはホリガーへのインタビューに基づいた内容となっている。

ホリガー/チェロとピアノのための「ロマンセンドレス」。クララによって焼失させられたという「5つのロマンス」に関わるエピソード(ブラームスとの関係が暗示?)が作曲のきっかけとなったとか。

ホリガー/「暁の歌」より。晩年のシューマンの姿に音楽とテキストを通して鋭く迫る-。


アルバム1曲目は交響曲第1番変ロ長調Op.38「春」から始まる―この曲ほど「始まり」に相応しい作品はそうそうあるまい(『春の始まり』)。冒頭のファンファーレがまさにそうだ。ただ、ホリガー盤では通常とは異なる音程で鳴り響く―「3度低い」のである。この解釈、初稿版を参考にしているのは明らか(因みにマーラー編曲版も初稿を参考にしているようだ。初稿版のタイトルは「春の交響曲」となっており、各楽章にもタイトルが付されていた。改訂版=現行版と比べ、数多くのオーケストレーションの相違がある。スウィトナー盤が現在唯一の録音)。このファンファーレは、シューマンが発見したシューベルト/交響曲第8番「グレイト」の冒頭からインスピレーションを受けた、とも考えられるし、もっと直接的にはアドルフ・ベトガーの詩に触発されたものであるという。

O wende, wende, deine Bahn
Im Thale blüht der Frühling auf !

おお、変えよ変えよ、お前の行く手を
谷間に春が萌えている!

Adolf Böttger/「Frühlingsgedicht」より

ある評論家に言わせれば、ファンファーレに合わせて歌うことが可能だという。「冒頭のトランペットが高いところから呼び起こすように響き、すべてが緑色を帯びてきて蝶々が飛ぶ様子も暗示される」という序奏だが、改訂によって「より」高いところから呼ばれることになってしまった。オリジナルの「低さ」にシューマンらしさを感じるのは僕だけだろうか。ちなみにシューマンはティンパニの音程にも工夫を凝らし、各楽章で違う音程を採用している。この辺りはベートーヴェン/第九に触発されたアイディアかもしれない。

ホリガーの演奏ではこの序奏部分のテンポが速く、めくるめく展開してゆく感じなのだ (聴いていてアーノンクール指揮のモーツァルト/交響曲第39番の序奏を思い出す―往年の指揮者の演奏とは異なり、聴感上ほぼ倍に近いテンポで駆け抜けるのである。主部に入ると少し落ち着くところも似ている) 。スケッチが僅か4日、全体が1ヶ月ほどの速筆で書かれた素早いインスピレーションを彷彿とさせるテンポ感である。一時期シューマンのオーケストレーションの不備が課題として指摘されていたとは思われないほど、音楽的充実感に溢れた演奏になっているのが嬉しい―最近の演奏はどれもそうだと思う。かえって腕の見せ所なのだろう。音があるべきところにあり、響くべきところで響く感じなのだ。サウンドの混濁は全く聞かれない。

第1楽章全体に溢れる喜びの感情が僕の気持ちにも伝播する―トライアングルの響きやフルートのパートが印象的だ。再現部直前の(序奏に基づく)クライマックスが最大の聴きどころかもしれない。コーダ直前ではいったん沈静化し、第2楽章のテーマを思わせるメロディが歌われる (「リーダークライス」を思わせ、ブラームス/第1交響曲の第2楽章を思わせる) 。やはりフルートが印象的に舞う。コーダは喜びの爆発だ。素直な気持ちだと思う。

当盤同音源から第1楽章を-。

マーラー版による第1楽章。冒頭の3度低いファンファーレやフレーズ処理等、初稿版を参考にしてるのが興味深い。

シューマン/「リーダークライス」Op.39~第9曲「悲しみ」。

ブラームス/交響曲第1番~第2楽章初稿版。


第2楽章には『夕べ』というタイトルが付されていた-まさにその通りの音楽。喜びの感情が自然の神秘に向かうイメージがある。中間部に現れる心のざわめきも印象的だ。この幸せがいつまでも続くのだろうかという不安が見える (ブラームス/交響曲第3番の冒頭テーマとの関連を指摘する向きもある) 。コーダには一瞬「ケルンの大聖堂」が見える気がする-この3本のトロンボーンによるコラールは、数年前プラハにてシューマンが午前3時に(おそらく幻聴で)聞いたもので、その時間に彼の兄が亡くなっている。どこか葬送のイメージを抱かせるのはそのためかもしれない。

アタッカで繋がる第3楽章はスケルツォでニ短調の響きを持つ。調性は異なるが、シューベルト/交響曲第5番のメヌエットのテーマに一部似ているような気もする。初版ではトリオは1つだが (現行版での第1トリオが相当し、第1楽章のモティーフが引用される) 、『楽しい遊び』という表題のイメージでは (初版にはない) 第2トリオの方が相応しそうだ 。大切な人と追いかけっこして遊んでるみたい-でも最後にはキチンと捕まえるのだ。

当盤同音源より、第2楽章。

シューベルト/交響曲第5番~第3楽章。


フィナーレの第4楽章では再びあの「ファンファーレの喜び」が舞い戻ってくる。『春たけなわ』のタイトル通り、春の喜びを謳歌するのだ。Allegro animato e graziosoの指定だが、ホリガー盤ではグラツィオーソ寄りのテンポ感に思える。優雅でステップを踏むような軽い足どり。そして突然出てくる「クライスレリアーナ」の引用に驚く-今でもこの引用の意味がわからないでいる。不思議だ-。再現部の直前、気持ちが静まり、ホルンがたなびき、フルートが舞う―このカデンツァのような箇所が好き (初版ではより印象的) 。コーダではテンポを速め、情熱的に終わる。

シューマン夫妻の編曲による4手ピアノ版の第4楽章。1842年出版。上記の引用もあるせいか、全く違和感ゼロ。むしろ、ロベルトとクララが喜んで連弾してる様子が想像できるほどだ―。



2曲目の「序曲、スケルツォとフィナーレ」Op.52は1841年に初稿が完成し、「交響曲ニ短調」と共に初演されたという歴史を持つ―おそらくここに収められているのは1845年の改訂版だと思う―。全3楽章形式のさながら「小交響曲」のような雰囲気で好感の持てる作品であるが、クララ・シューマンは各楽章を結びつける力が弱いため、交響曲ほどの内容を持っていないと指摘したという。シューマン自身も各々が独立した音楽という認識を抱いていたため、抜粋演奏を奨励さえしていたが、後の分析によって有機的な繋がりが見出され、現在では3楽章続けて演奏されることが殆どとなっている。

第1楽章冒頭、ホ短調の哀調ある雰囲気も好きだが、印象的なのは第2楽章「スケルツォ」嬰ハ短調。特徴的なリズムなのだが、どこか足踏みしてる感じがする。前には進んでいないのだ-どこか「春」の交響曲で引用された「クライスレリアーナ」第8曲を思わせる-。それは第3楽章「フィナーレ」で解消される。フガートのようにメロディが重なり、ずんずんと進んでゆく。何か空を見上げるような、高みを目指すような、そんなイメージがやってくる-もちろん「空」は晴れている-。このような高揚感に最後まで貫かれた終楽章だ。このフーガの使用は、ライナーノーツによればオラトリオ的性格のものであり、「言葉のない合唱」による賛美歌と据えている。

CD化されなかったアーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団による貴重な音源。2004年録音。



アルバム最後は「交響曲ニ短調」―「第4番Op.120」として知られているシンフォニーの初稿版であり、クララへの誕生日プレゼントとして捧げられた作品でもある。近年よく聞かれるようになったが、僕が最初に耳にしたのはアーノンクール盤だった。当初聞いた印象は「やはり改訂版の方がいいな」というもの-興味深くはあったが。後年ブラームスがクララの制止を振り切ってまで出版するほどにこの初稿の価値を強調していた理由があまりよくわからなかった-その事でクララとの関係も悪くなったのに。でも改めて聞いてみたら、僕には「似て非なるもの」という位置づけとなった(「スウェーデンのモーツァルト」といわれたヨーゼフ・マルティン・クラウスの嬰ハ短調とハ短調の交響曲の関係に似ているともいえる)。今では初稿版の方が気に入っている。

クラウス/交響曲嬰ハ短調→ハ短調。それぞれの第1楽章を聞き比べ。ハイドンに献呈すべく改訂された。



この初稿版では現行版 (第4番) とは異なり、速度表記が全て「イタリア語」で表記されている。編成も違うのか、随分ライトな印象で若返った感じもする。そのため情熱が荒ぶって聞こえる-特に第1楽章。1851年改訂版は推敲され整理された美しさがあるが、インスピレーションが促すまま書きなぐり、楽想が楽想を上書きするような感のある初稿はかえって新鮮である。

第2楽章「ロマンツェ」では当初ギターが考慮されていたという。シューマンは大胆にもこの楽器を導入して、「セレナード」の伝統に沿ったものにしたかったにかもしれない。録音にギターを採用したシュメーエ盤のライナーノーツによると、第2楽章の自筆楽譜にはギターパート用の段がまるっと残されていたという。シューマンは既にこの種の試みを「春の交響曲」で行っていた―トライアングルの導入である。このように交響曲のジャンルで使われることが稀だった楽器を積極的に投入していった点では、ベルリオーズを超え、まるでマーラーの先駆のようである。結局、ギターの導入は諦めざるを得なかったようだ―シンフォニックな響きと合わなかったのか、廃案の理由は不明である。それでも弦のピツィカートにその名残を聞き取ることは可能である。

マーラー/交響曲第7番~第4楽章「夜の歌」。ギターやマンドリンの響きが心地よい-。


初稿版におけるもう1つの「幻」のアイディア-それは第3楽章「スケルツォ」冒頭に予定されていた (チャイコフスキー/交響曲第4番に似た) ファンファーレである。しかも発想当初のヴァージョンと自筆楽譜に残されたヴァージョンと2種類存在するらしい。前述のシュメーエ盤では録音に反映させているが、ホリガー盤を含む大抵の演奏では聞くことができない。

第3楽章→第4楽章へのブリッジは改訂版において最大の聴きどころであるが (チェリビダッケ盤ではブルックナーばりに盛り上げていた) 、初稿版ではそこまでスケールが大きいわけではないにせよ、根源的な迫力には不足していない。割とスッキリと躍動する。それにしても、コーダに向けての加速が凄まじい。若さが爆発する感じだ。でもそのまま突っ走ってしまわず、最終的には安定感のうちに終わるのは指揮者ホリガーの見識だと思う。

当盤同音源により全曲を-。

メンデルスゾーン/オラトリオ「聖パウロ」より。弦楽パートをシューマンが参考にした可能性が指摘されている。

ボヘミアの作曲家ヤン・ヴァーツラフ・カリヴォダ/交響曲第1番ヘ短調Op.7。スケルツォの楽想がよく似ている。


♪♪♪


カスパー・ダヴィット・フリードリヒ/「日の出に立つ女性」 (1818-20)


まさにシューマン最初の交響曲にして、最初のツィクルス・アルバムに相応しい絵画ではなかろうか―。

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