ティーレマン/WPhによる「Bruckner 11」~交響曲第00番&第0番、第5番
ブルックナー生誕200年の2024年を前にして、クリスティアン・ティーレマンがウィーン・フィル (WPh) とレコーディングしたブルックナー/交響曲全集プロジェクト「Bruckner 11」―その第1弾となったDVD盤 (Blu-ray盤やCD盤もあり) 。習作として認知されていた2曲の交響曲 (第00番ヘ短調&第0番ニ短調) と交響曲第5番変ロ長調がウィーン・ムジークフェラインザールで無観客ライヴ収録されている。2021年3月録音。
ボーナス映像として、各交響曲についてティーレマンと音楽学者ヨハネス=レオポルド・マイヤー氏とによる対談「Discovering Bruckner」が収録されている―これがなかなか面白かった。
この「Bruckner 11」プロジェクトは2019年4月~2022年7月にかけてライヴ収録された。ロケーション場所はブルックナーの交響曲の多くが初演されたウィーン楽友協会大ホールとWPhが定期的にブルックナーを取り上げるきっかけとなったザルツブルク音楽祭。殆どは通常のライヴだが、当盤を含む一部のレコーディングのみ、コロナ禍ゆえの無観客ライヴとなっている。
当盤の映像。交響曲第00番、第0番、第5番を収録―。
第2弾。交響曲第1番 (ウィーン版) と第7番 (ノヴァーク版)。
第3弾は交響曲第2番 (1887年第2稿) と第8番 (ハース版)。
第4弾。交響曲第3番 (1877年第2稿ノヴァーク版) と第6番。
第5弾は交響曲第4番「ロマンティック」(1880年第2稿ハース版) と第9番 (原典版)。
1842年に誕生したウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (Wiener Philharmoniker) 。ブラームスやブルックナーも指揮台に立ち、第5番、7番、9番以外のブルックナー/交響曲の初演に関わったオーケストラ。常に理解ある態度を示していたわけではなかったが、ハンス・リヒターやグスタフ・マーラーといった優秀な指揮者たちのおかげもあってか (弟子たちの働きも大きかっただろう) 、ブルックナーの交響曲は徐々に演奏されるようになり、WPhのみならず世界のオーケストラの主要レパートリーとなった。「ブルックナー生誕200年」である今年2024年は、おそらく歴史上最も多くブルックナーの作品が演奏された記念の年となるだろう―生誕100年や150年のイベントはかつてあっただろうが、今年ほど盛り上がってはいまい。ブルヲタ率が世界一?の日本でも、これまで以上にブルックナーのことが話題となり、演奏され、新録音を含むディスクが出回ったのではないだろうか。当盤は1人の指揮者がWPhを振って完成させた初のブルックナー/交響曲全集からの1枚となる。
2024年ニューイヤー・コンサートではブルックナー/カドリーユが演奏された。ティーレマン/WPhで―。
ブルックナーのピアノ曲を集めたアルバム。こちらは児玉麻里による最新盤。
このDVD盤を購入したのもアニバーサリー・イヤーにあやかってのことだったが、それ以上に興味を惹かれたのはWPh初演奏&初録音の交響曲第00番と第0番が含まれていたことだ―ティーレマンはそれらを含め「ブルックナーの交響曲は全11曲 (全9曲ではなく) 」とのスタンスを示す。以前からインバル盤やスクロヴァチェフスキ盤で親しんでいたこれら習作交響曲だったが、まさかウィーン・フィルで聴けるとは!前述の演奏動画を観る限り、期待できる内容だと感じたのだった。予想以上に楽しめたのはボーナス映像の対談だった。各曲20分ほど―所々演奏場面も挟んで語られ、とても分かりやすい。何といっても (演奏されることの少ない) 2曲の習作交響曲についてこうして語られるだけでも貴重だ―気づかされた点も多々あり、それは後述する―。アーノンクールらとは異なり、ティーレマンは学者肌ではないので (先入観?) 、演奏体験に基づくもの以外では結構感覚的なことを率直に語る。その辺りがリスナーや音楽愛好家に近い目線に感じられ、分かりやすさに繋がっているのかもしれない。ライナーノーツの中で、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団会長・Daniel Froschauer教授はティーレマンの演奏についてこう述べている。
パンデミックの影響でこのプロジェクトが一時的に停止せざるを得なくなったとき、その時間を最大活用してティーレマン/WPhは知られざる2曲の習作交響曲について熟考し、十分なリハーサルを重ねることができた。その結果、これらの交響曲に驚くべき魅力が秘められていることに気づき、指揮者オケ共々驚愕したことがライナーノーツと対談で示されている。ブルックナー/交響曲の豊饒すぎる大音響とその独自の性格に辟易気味だった僕が改めて魅力を見いだせたのがこれら第00番や第0番のおかげだったことを思い出す。同様に、ティーレマン/ベルリン・フィルによる第00番&第0番のコンサートがラジオでオンエアされたとき、(大多数が初聴きにも関わらず) 旧ツイッターでの反応がすこぶる好評だったのを思い出す。先入観なしで聴いてとても良い曲だと多くの方々が感じたわけだ。ティーレマンとオーケストラによる深い共感の成果であろうし、音楽の魅力そのものの結果ともいえるのではないだろうか。
「ベスト・オブ・クラシック」でオンエアされたのと同音源の演奏で。力感が凄いのは流石BPhである。
当盤の最初は、実質上ブルックナー最初の交響曲である交響曲第00番ヘ短調 (1863) 。習作交響曲(Study symphony)と呼ばれる通り、当時管弦楽法を学んでいたブルックナーにとっては学習課題(Schularbeit)のような位置付けをされてきた作品である―ブラームスと同様、ブルックナーは交響曲作曲を手掛けるのは遅かったようだ―。こともあろうに教師から「特にインスピレーションに富んだものではない」と評されたそうだが、ティーレマン/WPhの当演奏を聴くと如何にその判断が軽率で誤っているかが見事に証明されている。ティーレマン自身も当初は「(習作なのだから) 稚拙で未熟なひどい作品に違いない」と思っていたが、今では「真正の作品として適切に扱われるべき」だという確信に変わったそうだ。ブルックナーの本心もそうだったかもしれない―スコアが最終的な破棄を免れ、改訂もされずに現在まで残っているという事実だけ見ても、この作品に対するブルックナーの想いが伝わってくる。
多くの点でブルックナーらしからぬ展開を見せるこの交響曲はとても刺激的だ。ティーレマンは対談の中で、曲当てクイズをしたとすれば「ブルックナーのようだ~違うかな~やはりブルックナーだ」と感じるだろう、と述べている―作曲に際してブルックナーはウェーバー、マルシュナー、シューマン、メンデルスゾーンの作品を研究したに違いない。初めての交響曲なのにオーケストレーションに無理がなく、音があるべき位置に保たれているような印象を受ける理由として、ティーレマンはブルックナーのオルガニストとしての資質を挙げている。ストップにより多彩な音色を引き出せるオルガンはまさにオーケストラそのもの。彼には「管弦楽における楽器同士の自然な親和性が備わっていた」と説明している。「ヘ短調」という調性も独特だ。本来なら悲劇的な色調を感じさせる調性なのに、この第00番は何故か暗くない。曲に漲る若々しい活力と活気のためかもしれないし、長調のフレーズが際立っているからかもしれない。
ブルックナー/ミサ曲第3番ヘ短調より。この曲も確かに暗くはない。
第1楽章は序奏もなく突如始まる―しかも軽やかに。この時点で既に新鮮だ。トリスタン冒頭のため息モティーフに多少似ている気がするのはブルックナーらしいのかもしれない(当時ブルックナーはワーグナー/歌劇「タンホイザー」を初演を指揮した作曲の師と熱心に研究したのだという)。第1主題~第3主題まで登場するのも後年のブルックナーの特徴であり、既にここで試されていたこともわかる。ブルックナーの交響曲では唯一提示部の反復が指定されているが、リピートをカットしている演奏盤もあるようだ―以前所有していたインバル盤ではリピートを敢行していた。当盤ではもちろんリピートを完全遂行している。
この交響曲の中で俄然魅力的なのは緩徐楽章とスケルツォであることに間違いはない。その第2楽章アンダンテの美しさはウィーン・フィルの団員たちの目を輝かせた。中間部において「Tragic dance」ともいうべき動的なフレーズが短調で現れるのは極めて印象的。対談の中で音楽学者のマイヤー氏に「第2楽章の中間部の由来がわからない」 と話を振られ、ティーレマンはブルックナーのせわしない性格に注目していたが、実際のところは勿論誰にもわからない。僕としてはシューベルトの緩徐楽章との類似を感じる―穏やかな音楽に激しい中間部を突如出現させるのは彼の独壇場だからだ―。このようなコントラストは後の交響曲には見られなくなるが、ブルックナー/交響曲第9番~第3楽章に登場する不協和音の衝突は、このアイディアの最終形態のように感じる。
第3楽章スケルツォは聴いた途端、直ちに魅了されてしまう。ブルックナーが作曲した全てのスケルツォは交響曲楽章の中でも聴きどころの1つ。ここではメンデルスゾーンの爽やかさを感じさせつつ、軽やかに進行する。ティーレマン曰く「絶好調のブルックナーであり、本物の音楽」である。
当盤同音源 (CD盤) より、第1~3楽章を―。
フィナーレも一種の軽さと推進力が特徴の「陽気なヘ短調」ともいえる音楽。冒頭で聴かれるリズム音型は明らかにシューマンの交響曲で聴かれたものだ。さらにティーレマンが「イタリア流の衝動性」と表現しているのは慧眼。そこからイメージできるのは颯爽としたメンデルスゾーンの交響曲である。ブルックナーと同時に多くの作曲家のエッセンスが聞けるとは何と嬉しいことだろう。後年の作品では体験できないことである。WPhの団員たちが演奏する様子を映像で観るのは久しぶりだが、ヴァイオリン対向配置によるその演奏(コントラバス群はひな壇上部に並ぶ)は解像度も素晴らしく、スコアを見事に音化する。しかもマンネリズムに一切陥らず、表現意欲に富む生き生きとしたウィーン・フィルを観れるのも嬉しい。
ところでこの交響曲にはブルックナー作品に見られる数々の特徴を欠いているが、他の10曲の交響曲にはあるのに、この交響曲にだけ唯一見いだせない音楽的要素がある。それは何だろう?ティーレマンはその理由を「ブルックナーに訊いてみたい」と語っている。つまり何故かはわからないのだ。その正解は後ほど―。
当盤音源より第4楽章冒頭。シューマン・リズムを発見できる。
若きティーレマンがフィルハーモニア管弦楽団と録音したシューマンより。
続いては、交響曲第1番ハ短調の後に書かれたという交響曲第0番ニ短調 (1869)。自筆譜には元々「交響曲第2番ニ短調」というタイトルが付けられていたそうで、実質的には3番目のシンフォニーとなる。先ほどの交響曲第00番ヘ短調と同様、この曲も第3者からの心なき批判を受けた―残念ながらブルックナーの交響曲創作にずっと付きまとう現象だ。その試練を「真の芸術家の証」のように受け止められる精神の持ち主ではなかったようである。それでブルックナーはタイトルを消し「全く通用しない (ganz nichtig)」「単なる試作 (Nur ein Versuch)」「無効 (ungiltig)」「取り消し (annulirt)」と記したとされている。だが、やはり第00番同様、スコアが破棄されることはなかった。迷いはあったとしてもブルックナーは自らの交響曲作品として認めていたことが伺える。
「主題はどこにあるのか」というその批判が適切ではないと考えているのは、ティーレマンやマイヤー氏だけではない。その証拠に多くのレコーディングがなされ、現在ではブルックナー/交響曲全集の仲間入りを果たしているからである (第00番より認知度は高いらしいが、もちろん全集に含めない指揮者も多数いる)。マイヤー氏曰く「主題はないが見事な出だし」「雰囲気としての主題」とは見事な切り返しだ。実際にはモティーフ(動機)レヴェルで音楽が始まり、やがてテーマが明確になり展開されてゆく。ティーレマンはこの交響曲が持つドラマ性に注目し、「交響曲第1番ハ短調は第0番の足元にも及ばない」とまで発言しているが、少し持ち上げ過ぎのような気もする。確かに交響曲第1番のほか、後続する多くの交響曲の萌芽を感じ取ることができる作品でもあり、内包されている可能性に圧倒される思いもある―「ニ短調」という調性は交響曲第3番や第9番が該当するし、節々に聴こえてくるミサ曲を含む声楽曲の引用は交響曲第2番以降顕著になる傾向で、以後数々の交響曲のモティーフに刷り込まれる (第9番もそうだ) 。フィナーレに登場する序奏は紛れもなく交響曲第5番の前兆ともいえる。マイヤー氏の「(この交響曲には) 残余がある」というコメントはおそらくこれらの可能性を示唆しているのだと受け止めた。またティーレマンはリスナーに向けて、ブルックナー/交響曲をヘ短調 (第00番)→ハ短調 (第1番)→ニ短調(第0番)→ハ短調 (第2番)→ニ短調 (第3番)というように、作曲年代順に聴くことを対談の中で提案している。ベートーヴェンの9曲の交響曲がそうであるように、作曲の遍歴を辿ることで作品の相互理解が深まり、作曲技法の向上を追体験できるからだ。例えば「緩徐楽章を取ってみても、書かれる度に向上している」とティーレマンは語っている。
交響曲第0番はヘ短調交響曲より先に親しんでいた作品であり、最初に聞いたのはマリナー/シュトゥッツガルト放送so盤だった。マリナーには珍しいレパートリーだと思って聴いたら、とても聞き応えがあり―特にスケルツォとフィナーレ―、愛聴盤となった思い出がある。インバルやスクロヴァチェフスキ、ロジェストヴェンスキー盤など、比較的多くの演奏盤を聞いた (ショルティや朝比奈も録音していた―朝比奈氏は3種も!) が、当盤のティーレマン/WPhは彼らの思い入れの深さが音に表れていて、感銘を受ける。同じニ短調のベートーヴェン/第九の影響も色濃いが、特にコーダ直前のコラール風のフレーズ(ブルックナー/第9番でも登場)では十分パウゼを取り、詠嘆的にじっくり歌わせる。直後のコーダへの転換も見事であり、聞かせ所をしっかり押さえたティーレマンの配慮が嬉しい。
当盤同音源より、第1楽章を―。
アンダンテの第2楽章はマイヤー氏が「この交響曲の中核」と述べるほど核心となる音楽で、自作の「アヴェ・マリア」の引用が現れる。そのためかフレーズもどこか声楽的かつコラール的で、宗教性すら帯びる。ティーレマンが「モーツァルト/レクイエムを思わせる」というのも(ニ短調という主調とともに)納得できるが、「あらゆる交響曲はモーツァルト/レクイエムの引用のようだ」というのは言い過ぎの感が否めない―この辺りは自分の感性に正直というか、思いつきのままに話しているというか―。それでも、ポリフォニーの使用も含め、この交響曲にはアンダンテを頂点にした宗教的性質をシンフォニーに込める実験をしているように感じられる―それは次作の「ミサ交響曲」ともいわれる交響曲第2番ハ短調で開花する。
第2楽章。このティーレマン盤を聴いて、この楽章の魅力に気づいた。
ガーディナー/モンテヴェルディ合唱団による演奏。もはやこのコンビで聞けないのが至極残念である―。
第3楽章のスケルツォはやはりここでも聴きもの。既に (ブルックナーのスケルツォにありがちな)「宇宙」を感じさせるスケール感を滲ませている。冒頭テーマの上昇音型に「マンハイム・ロケット」との類似を指摘する解説もあるが、これも「宇宙」のイメージに貢献しているのだろうか。ティーレマンはブルックナー/交響曲第9番のスケルツォに類似した性質を見出しているが、僕にはそこまで感じられなかった―というよりも、第9番のスケルツォが比較を絶して異様に思えてならないのである。
序奏から始まる第4楽章フィナーレは、もちろんブルックナー初の試み。その後に登場する主要主題は交響曲第7番のフィナーレに出てくる(あまり好きではない)押しの強いテーマに似ている感じがする。続く3連符が特徴的なテーマをティーレマンは「ピアニスティック」と評している―確かにブルックナーには珍しい音型でメンデルスゾーンやシューマンに聞かれそうな感じだ。ちなみにここでのWPhによる弦楽合奏は極めて美しく歌い上げられている。ヘ短調交響曲より、この第0番でカンタービレな演奏が繰り広げられているのは、作品の特徴や解釈を踏まえてのことだろう。展開部以降の畳みかけるパッショネイトな表現はとりわけ好きなシーン。この熱情も後の交響曲では聞かれまい。そしてこのフィナーレはブルックナーにしては珍しく短めの音楽となっていて、第1楽章と同等の重量感を持たせる後年の作品とは異なる面を示している―第7番のフィナーレも第1楽章に見合わぬ「軽さ」が指摘されることがあるが、第0番はそれ以上に短い。短い緩徐部を経て、高らかなコーダで音楽が終結した後の、団員全員の気持ちを代弁しているかのような、コンサートマスターの充実した笑顔がとても印象的であった。
当盤同音源より、2つの後半楽章を―。
続いてはDVD2の「交響曲第5番変ロ長調」。ボーナス映像の対談は約40分と長尺で (それもそのはず) 本編の映像とともにリハーサル風景も収録されている。僕にとっては、第00番や第0番を収録したDVD1が最大の目当てであり、第5番には特に大きな関心を抱いていなかった。ブルックナーの交響曲の中でもこの第5番が好きなファンは多いように思われる。生誕200年記念としてブルックナーを取り上げた音楽番組で演奏されていたのもこの第5番だった。ブルックナーらしさを紹介するのには適した曲なのかもしれないが、メロディアスな魅力のある第4番「ロマンティック」や第7番などの方が親しみやすいのでは?と思いながら観ていた (あまり魅力的に聞こえては困るのだろうか―とつい邪推してしまう) 。
僕は決してブルックナー/交響曲第5番の良い聴き手ではない。他のナンバーは聴いても、第5番を進んで聴くことはなかった。そんな時購入したチェリビダッケ指揮によるブルックナー/交響曲集のBOXの中に含まれていた第5番の演奏で初めて全楽章を聞き通すことができたのだった。とても素晴らしい音楽だと感服した。歌謡性ではなく綿密極まる構築感の見事さで圧倒する交響曲。それは美術に近い世界であり、細部を丁寧に作り込んだ壮麗な建造物を拝見したかのようだ。でもそう思えたのはチェリビダッケのおかげだったのかもしれない。当盤のティーレマン/WPhを視聴したら尚更その感を強くしたのだった。
特に好きだったスケルツォ楽章を。ソナタ形式をテーマに織り込んだ大規模な造形。ローカルな味わいのレントラー・フレーズも印象的。それらを止揚してゆく圧倒的なサウンドスケープ。
1876年に作曲されたブルックナー/交響曲第5番変ロ長調。この機会に色々調べてみたら、特に構造面で興味深いことがわかった。この交響曲の特徴の1つに、スケルツォ以外のすべての楽章がピツィカートで始まることがまず挙げられる。だからだろうか「ピツィカート交響曲」という異名もあるそうだ。ブルックナーが何故第5番でこれほど多用したのか、はっきりした理由はわからない―「対談」の中でも話題に上っているが、答えはわからない。また、やはりスケルツォ楽章以外全て序奏を持っている点も興味深い―つまり、ピツィカートと序奏が結びつけられているわけだ。ブルックナーの音楽には「中世の趣き」を感じることがあるが、ピツィカートで始まる序奏に僕は何となくリュートの響きを想い、音楽が始まる前の「爪弾き」のように感じられてならない―根拠はなく、単なる僕の音楽的直観である。巨大な交響曲のイメージがどうしても強いブルックナー/交響曲第5番だが、オーケストラ・サイズは意外にも通常の2管編成であり (第4番の改訂からチューバが加わる) 、室内オーケストラによる演奏盤が存在するくらいだ。この曲に内在する室内楽的要素は改めて考慮するべきなのかもしれない。
シュトラウス父子合作/ピツィカート・ポルカ。ここはWPhではなくあえてチェリビダッケ盤で。1986年東京でのライヴ。この曲で実在的な迫力を感じるのは稀有な体験。
ブル5と同じ年に完成されたチャイコフスキー/交響曲第4番~第3楽章。全編ピツィカートという前例のない楽章となっている。最近残念なニュースを聞いたインマゼールの演奏盤より。
ブルックナー/交響曲第6番~スケルツォ。ピツィカートが登場するトリオのテーマは何と交響曲第5番第1楽章の主要主題に基づいている。ゲルギエフ/ミュンヘンpo盤より。
ブルックナー/交響曲第9番~スケルツォ。冒頭のピツィカートが不吉な予兆のように響く。演奏は素晴らしいのにこれまた残念なフランソワ=グザヴィエ・ロトの指揮による。
ピツィカートで始まるヴェーベルン/パッサカリア Op.1。カラヤン/BPh盤は未だにマストである。
他の特徴として、両端楽章と中間楽章がそれぞれ共通要素で統一されているのも面白い。つまり、堅固な作りの両端楽章によってアダージョ&スケルツォがサンドイッチされている。「外壁」ともいえる第1楽章と第4楽章は共に変ロ長調で、冒頭の序奏が第4楽章にも現れる。続いてベートーヴェン/第九フィナーレと同じように前3楽章のモティーフが回想され、後に二重フーガも展開される。「中身」の第2楽章アダージョと第3楽章スケルツォは共にニ短調。アダージョのベースラインがスケルツォに現れる。それもあってか、楽章間の移行がアタッカのように自然に流れてゆく―まるで1つの楽章のようだ。
交響曲における「序奏 (イントロダクション)」は第1楽章冒頭に位置することが殆ど。古典的な交響曲では、序奏付きがフォーマルだったのかもしれない。元々は教会ソナタの「Grave」楽章に相当したのかもしれない。だとしたら、序奏なしにいきなり主部が始まる手法は当時斬新に響いたことだろう―ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲に多くの前例を見出せる。一方でシューベルトの交響曲には全て序奏が備えられている。彼の交響曲スタイルは古典的なフォームを崩さなかったということになる―。さらに「序奏付きフィナーレ」という点に注目すると、これは結構前例があった―思いつくままに挙げても、シューマン/交響曲第1番&4番、ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」、チャイコフスキー/交響曲第5番、マーラー/交響曲第5番など。特にドヴォルザーク/第9番は全楽章に序奏が用意されている (これは珍しい例なのかもしれない) 。ブルックナー5番における序奏は荘重でとても印象的な響きだ。長調のはずなのに短調の翳りを帯びている。ネットにあった情報ではモーツァルト/レクイエムの冒頭ととてもよく似ているという。ここで思い出す―対談の中でティーレマンが同じ発言をしていたことを。よく解っていなかったのは僕の方だった。
序奏があると実に作り込んだ感があるが、スケルツォ以外の全楽章に序奏を設けたブルックナー第5番は作曲家が特に心血を注ぎ込んで完成させたシンフォニーだったのではなかろうか。不思議とこの第5番にはブルックナー作品にありがちな「版の問題」がない。それだけ作品の完成度に自信と確信があったのだと思う―ブルックナー本人はついに初演に立ち合うことができなかったのが残念でならない―。さらに以前の交響曲のようにミサ曲を含む自作の声楽曲の引用や、他作曲家の露骨な引用もなく、完全なオリジナルとして聳え立っている。それでも引用に依らないコラールはふんだんに準備され、バッハばりの (あるいはベートーヴェン/大フーガのような) フーガがゴリゴリと展開してゆく。「循環形式」にも例えられるテーマの再現も見事で、次々と現れる主題を追うのが楽しく、フィナーレのコーダは第8番のそれに匹敵する圧倒的な高揚感に満たされるのである。「第5番」というナンバリングとともに、ブルックナー交響曲の「中心」に位置するのに相応しい音楽であろうことに疑いはない。
第1楽章と第4楽章の共通性の点ではシューベルト/交響曲第4番「悲劇的」もそうだ。アーノンクールは「交換可能」とすらコメントしていたほど。演奏は後のBPh盤の方が聞き応えがある。
メンデルスゾーン/交響曲第5番ニ短調「宗教革命」~第4楽章。序奏で「ドレスデン・アーメン」が現れる。座談会の時、作曲家S氏がブル5との共通性を語ってくれたのを思い出す。お騒がせのガーディナーだが、新たなオーケストラによる活動再開が報じられている。
いつ聴いても感動を禁じ得ないモーツァルト/レクイエム~冒頭。ジャケットも美しいカラヤン/WPh盤。
さて肝心のティーレマン/WPhによるブルックナー/交響曲第5番の演奏だが、聴後感が残らない薄い印象の視聴となってしまった。ウィーン・フィルのサウンドの美しさは相変わらずだし、素晴らしく感じる瞬間が訪れた (特に第2楽章) にも関わらず、全体的に平坦な印象を免れなかった―フィナーレの後半は流石に壮麗だったが。おそらくはティーレマンなりの設計と意図があってのことで、安易に盛り上げるのを避け、抑制を強めに働かせたテンポの遅い静謐な表現を目指したのかもしれない―よくいわれるブルックナーの「信仰告白」のような宗教的な面を強調したかったのかもしれないが、冒頭からインパクトの欠ける演奏に思えてしまい、WPhの響きがムーディーにすら聞こえ、最後まで印象が変わることはなかったのである。はてさて、どうしたものだろう (繰り返すが、僕はブルックナー第5番の良い聴き手ではない)―ブルヲタに言わせれば「ティーレマンでブル5を聴く方が悪い」ということだろうか。レビューに好意的な評がなかったのはこういうことだったのだろうか。因みにティーレマン指揮による他のオケの第5番を聞いたが、印象は変わらなかった (それでもバイエルン放送soとの演奏の方が好ましく思えた) 。そこで世評の高いギュンター・ヴァント/ベルリン・フィル盤を試みに聞いてみたが、冒頭から違っていた―何とも有機的に響いていたのである―「ヴァントとティーレマンを比べる方がおかしい」と言われそうだ。前回取り上げた第00番や第0番がフレッシュでイキイキした演奏だったので、尚更第5番の演奏が気になってしまう。照明が半分落とされた黄金のホール、指揮者の後ろが闇一色なのも気になる (第00&0番の時は気にならなかったのに)―。
参考になるかどうかわからないが、ウィキペディア英語版には「オイゲン・ヨッフムの解釈」が載せられていた―。
この解釈からすれば、前3楽章が控えめに演奏されるのもわかる気がするが、だからこそフィナーレのために前もって手応えを残すべきだとも思える (ティーレマンの意図はどこに?) 。ピツィカートで弾くのは弦だけではない―聞き手の心の琴線を弾くことが必要なのである。ワクワクする気持ちを抱かせてほしい、と全てのリスナーは願っているのである。
このDVDの最後に、ティーレマンの意図を探るべくボーナストラックの対談を視聴したが、実演よりかなり興味深く、ここで初めて彼のスタンスとブルックナー/交響曲第5番の素晴らしさを理解できた気がする。印象的だったポイントを挙げてゆきたい―。
音楽学者マイヤー氏は、ブルックナー/交響曲第5番のことを「ショスタコーヴィチも立ち入らないほどの奈落の深みから、メシアンですら達し得なかった聖なる高みへ向かう」と語る。かなり極端な意見のように感じるが、伝わってくるのは作品への並々ならぬ愛情と、作品に内包されている極端なコントラストの存在である。突如音楽の進行が止まるような「裂け目」もあり―実はシューベルトやシューマンにもある―、それゆえに演奏が難しいとティーレマンは語っていた。
ティーレマンにとって交響曲第5番は特別な存在のようだ。彼はこう語る―。
元々ブルックナーは大好きでも第5番にはあまり関心がなかったのに、始まった途端、第1楽章のテーマに惹き付けられたそうだ。そしてフィナーレは初めは多少混沌としていると感じたが、未体験の圧倒的なクライマックスを体験したのだという。今では何故かブルックナーの交響曲の中で第5番を指揮する回数が一番多いとのこと―本人曰く「全くの偶然」らしいが。対談の中では演奏場面とリハーサル映像が挿入されるが、特にリハーサル・シーンでティーレマンのスタンスが明らかになったように思う。彼はカンタービレを再三要求し、演奏するウィーン・フィルを何度も止めては「直接的すぎる」「強引すぎる」「強すぎる」「とても静かに、とても静かに!」「音量を抑えて」「誇張してはいけない」と指示していた。ティーレマンは第5番に静謐な性質を見いだし、作品の純粋な荘厳さのために抑制に徹したことが伺える。頻出するコラールも「肉厚に演奏しない」「熱狂的ではなく簡素に」演奏することを心がけていた。
第2楽章アダージョについて、マイヤー氏は「ザンクト・フロリアン修道院の納骨堂に下りていく姿」をイメージすると語る。ニ短調の響きはまさにそのような厳粛な思いの発露となる。冒頭ピツィカートに続いてオーボエが歌う主題は哀感を伴って美しいが、弦楽合奏で歌われる第2主題には陶然とさせられる。後半に訪れる上昇しつつ高揚する場面は後の第8番アダージョを思わせる。ティーレマンは第5番を「最も歌心がある交響曲」と述べたが、特にこのアダージョに当てはまるだろう。
2005年にリリースしていたティーレマン/ミュンヘンpoとのブルックナー5番~第2楽章。分厚い弦の響きとロマンティックな解釈が印象的だ。
ブル5と同年作曲のチャイコフスキー/交響曲第4番~第2楽章。冒頭オーボエが活躍する点でも共通。
第3楽章に登場するレントラーやポルカ風のトリオは「まるでニューイヤーコンサートのよう」と微笑みながら語るティーレマン。「ブルックナーのスケルツォはどれも大衆的」といい、この第5番のスケルツォのことを「居酒屋での素敵な夏の夜のよう」「純粋な生きる喜び」が感じられるとの言葉が印象的だった。
「第4楽章は第1楽章で始まり、フーガ主題と合わさって第1楽章で終わる」というマイヤー氏。まさに統合のために存在するフィナーレだ。ここで登場するフーガとその展開をティーレマンは「ブルックナー版フーガの技法」と呼び「ブルックナーはバッハしかできなかったことをやった」とも語る。僕がとりわけ面白かったのはマイヤー氏が「ブルックナー通」のウィトゲンシュタインについて語り始めたことだ―ウィトゲンシュタインは好きな哲学者のひとりだが、ブルックナー通だとは知らなかった―。彼は「ブルックナーの交響曲はベートーヴェン第九への反抗だ」と述べたという。その意味についてマイヤー氏は、ブルックナーはベートーヴェン第九のように「友よ、こんな音ではない」とは言わずに「最後にすべてが整合する」音楽を作曲したというのだ。ブルックナーはすべてを余すところなく集結させ、万事解決させる。「色んな経過を経たが、すべて見事に終わっているぞ」と安心させる優しい教師のようだ。こんなことを語っているマイヤー氏とティーレマンは終始笑顔で、2人とも本当にブルックナーを愛しているのだと感じた。
対談を経て改めてその演奏に接すると、以前よりは好意的に受け止めている自分を発見できた。ブルックナー/交響曲第5番には演奏者にもリスナーにも一種の修練を課す面があるように感じられる。登山ではないが、登った先にある光景は登った人にしか見えないのである。
シャルク改訂版によるクナッパーツブッシュ/WPh盤から第4楽章終結部。別動隊のバンダが登場し、シンバルやトライアングルが派手に鳴り響く。まるでマーラーを聞いているような錯覚に陥る。
室内オーケストラで挑んだヴェンツァーゴ盤から第4楽章。鮮烈極まりない。
ティーレマンには悪いが、アーノンクール/WPh盤で全楽章を―。数種類聞き比べて感銘を受けた演奏だった (僕の贔屓が入っているのはご愛嬌)。バロック様式に精通した彼には相性が良さそうだが、遅いテンポで演奏しようとするウィーン・フィルに対しアーノンクールは速いテンポを要求したそうだ。
往年の指揮者によるブル5の中では最高の部類に入るだろう。ウィーン・フィルの響きが破格に素晴らしい。1968年ライヴ。
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*そうそう、クイズの正解を忘れていた―交響曲第00番ヘ短調にだけ唯一見いだせない音楽的要素―それは「コラール主題」である。実際にコラール主題もコラール風のフレーズも見当たらないのである。作品の軽妙さはそこから来ているのかもしれない。ブルックナーがコラールを交響曲に導入するのはしばらく後のことである。