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私たちの社会を見直すのに、「タブーを洗い出す」という方法もある!

私たちの社会は行き詰まっています
意見が分かれると、すぐに対立抗争し、利益が取れる計算があれば奪おうとします。すでに「まともなルール」は支持されておらず、力と力のルール、強い方が勝つ、「強い方が決めるルール、戦時ルール」が一般化しようとしているようです
思い返せば、その前の段階で、すでに「強いものがゴールポストを動かす」ということをやっていたためにそうなったように思いますが、私たち自身も今当然と思っていることを見直さないと、いつの間にか、時代に取り残されていくことでしょう。
タブーが多いということは、議論していないということです。わかった気になっているということかもしれないし、知らず知らずものすごく偏った人間になっているかもしれない、ということでもあります。

問題提起です。
私は、タブーを見直してみるといいと思っています。タブーは、一部しか見せない、あるいは半分も見せない「政策」だと思います。
タブーに隠された触れてはいけないとされているところに、今の状況を作った元凶が隠れている
かもしれないのに見せない、教えない、考えさせない。いったい、タブーの裏には、何が隠れているのでしょうか?
逆に、タブーに触れるということは、傷口に触れる場合があるかもしれません。これを恐れる人は絶対に読まないでください。お願いします

皆さんの反応のすべてに責任を負うことはできません。が、別の非常に重要な利益のために、タブーに挑戦するのです

例えば、「子供ファーストと言いながら、なぜ勝手に離婚してもいいのか?」という問題はタブーですが、タブーとなっていることがおかしいかもしれません。 このタブーは、離婚したい人の利益になっています。しかし、子供の利益は度外視です。「暴力夫と別れるのは子供のため」という人もいますが、口の暴力が良いとされるのが問題なのかもしれません。
この件については、さまざまな具体例があるのです。だったら、社会で話し合う必要があるのでは?
なんとなれば、ファーストであるべき子供にとっては、両親の離婚は一番困ることだからです。離婚は大人の権利かもしれませんが、大人の権利と子供の権利を比べたら、「子供ファーストという限りは、離婚禁止令を出さなければならないのでは?」という意見があっても致し方ないことです。
この両面を考えることで、大人の痛みも、子供の痛みもわかる。片方だけしか話題にできなければ、もう片方はないことになってしまう。それは、大きな間違いを犯す一歩ではないでしょうか?

例えば、放送禁止用語というのが山ほどあるのだそうですか、「なぜ、放送禁止用語があるのか? 戦場の死体、銃を乱射するところなど、真実であり、国民が知るべき本当のところをなぜ見せないのか? 見せてはいけないとされる映像がこんなにもたくさんあるのか? 一部の人は知っているではないか。子供が見るからということなら、ウェブで条件付きで流せばいいのです。しかも、なぜそれを公開討論せず、国民の声を集約せずに、専門家で決めるのか? 政治的意図があるのでは? 放送禁止用語の中に私たちが語り合うべきものがあるのでは?」という問題が発見されます。

例えば、「なぜ、自殺の責任を誰かが負わされるのか?」という問題もあります。自殺に追い込まれたから、追い込んだり、放置したりしたものが悪いということになるのでしょうか。物理的に追い込んでいないのに、追い込んだことになるのはなぜでしょうか
そもそも他人の精神の責任を、他の人間が取れるのでしょうか。それなら、他人の心を自由に変えられる人がいるということでしょうか。
このことは、被害者の立場から同情的に見ると真実を見誤ります。被害者の側から見るというのは正しいようで間違っていることもあります。
真実を真ん中に置かなければ、悪意ある被害(申告)者の罠にハマってしまうことになるのです。
先ごろあったような、そこで見張られている状況で線路に飛び込ませるとか、裸で橋の欄干に座らせてその場で川に飛び込ませるとか、その前段階で、隷従隷属関係をつくって命令したものである場合を除き、自由な時間、自由な場所で自分で選んだ自殺の責任を誰が予見できるでしょうか。その責任を誰が取れるのでしょうか。なるほど苦しみの責任の一端があったかもしれませんが、人が自殺するって本人でもないのにわかるものなのでしょうか? なぜ誰かに自殺の責任を取らせるのでしょうか? それをいうなら、責任を取らせる人は他にも身近なところにいると、言ってはいけないのも変な話です。あっちの関係者は責任を取らされ、他の責任者は放置、というのは、正しく言えば問題です。マスコミはこれを言いません。だから言っていることもやっていることも嘘くさいのです。
「人を殺してはいけないと言いながら、なぜ自殺は犯罪ではないのか?」「自分」も人であるから、自分で自分を殺害する、自我が自己を支配下に置いて行う「自分殺し」も殺人であるーーという理屈は正しいのではないでしょうか。これを殺人としないのは宗教上の理由であって理論的、法的には、殺人としても不合理ではありません。
このことについても、現実には、このような議論に耐えられない人もいるわけです。でも、だからと言って、暗黙的にか明示的にかタブーに指定して議論を避けさせることは、真実から目を逸らさせるのと同じです。恐ろしいのは、そうすることで、モノの見方が偏っていくことです。偏ったところで利益を得る人たちが一つの勢力として発生してくるのです。さらに多くの人が偏っていきながら、それを正しいと錯覚する。かなり一方的な正義が、そこに出来上がるのです。それこそが、恐れるべきことではないでしょうか?

逆に、相変わらずタブーであってほしいことが、簡単にタブーではなくなってしまったことがあります。例えば、強盗や殺人は、今までより、多くの人の間で、タブーではなくなりました。「やっちゃってください」と言われたら人殺しもやってしまうレベルの状況って、これまでの日本で言えば、とんでもないレベルではないでしょうか? そのせいで、金に関する暴力で年寄りが、性に関する暴力で女子が狙われています。組織犯罪にせよ、その時の欲望に任せて襲いかかる犯罪にせよ、狙われたら、もう防げないレベルです。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか?
逆に、「なぜ、自分はこんなに苦しくて、誰も助けてはくれないのに、強盗や殺人をしてはいけないのか?」ということも、表沙汰にするべき話題なのかもしれません。法律で禁止されているからとか、正義に反するからとか、当たり前とか、綺麗事ではなく、黒い部分で対話することができるかどうかだと思います。

他にも、「犯罪をしたことを立証するのに、自白(自分で自分の犯罪を証言すること)をもとにしてはならず、客観的証拠をもとにしなければいけないのに、痴漢などの犯罪被害を訴えるのは、客観的証拠は何もないのに、被害者(だとする人の)証言だけで逮捕、検挙、有罪になるのか?」これは、すでに法体系がメチャクチャになっている証拠なのです。
例えば、弱者を守る、ということなら証言だけで誰かを有罪にできるなら、どれだけでも犯罪者を製造することができます。「証拠のない犯罪は逮捕できないなら泣き寝入りか」という問題は、正直、「そんなことは知らん」というのが冤罪で逮捕された人の言い分ではないでしょうか? そんなことなら、正しくは、「満員電車の運行を禁止する」べきでしょう。一定の空間をとって乗車するルールが成立する環境なら、痴漢冤罪など起こらないのです。名前は忘れましたが、東京都知事で、満員電車を無くすと言って当選したにも関わらず「何もしない」という人がいました。「虚偽公約」ですよね? なぜ逮捕されないのでしょうか? そのせいで、冤罪確率が高いことを承知で電車に乗らざるを得ない人々が毎日毎日いるのです。問題ではないですか?「痴漢を減らしたいのはいいとして、痴漢冤罪は減らさなくていいのですか?」「人権侵害でも、していいものがあるということですか?」

例えば、「借金をするのに、返しにくい人ほど利子が高いのはなぜですか?もっと返しにくくなるではないですか。返せないようにしたいのですか? そのあとずっと借金の利息を返済するために、奴隷のように働き続けるようにしたいからですか?」
金貸しが借金をさせるのに、返しにくい人の利子を高くするのは、金貸しの側の理屈であって、貸す側の優越ですよね? 取引をするのに、優越的地位の濫用は犯罪ですよね? それなのに、この場合だけ問題にしないのは問題では? 
金貸しは、募集した借金プランに応募し、証拠書類を提出した人には、同じ条件(利率)で貸さなければいけないのではないでしょうか?
学習指導要領に子供の意見を反映させるという時代に、金を借りる側の意見を聞かずに貸し続けるのは問題ですよね? という議論が、なぜ起こっていないのか疑問です。
日本社会が戦後未だかつてないほど相当に荒れてしまって、みんなが強盗や殺人を身近に感じるようになって、行ける女の子はアジアやハワイまで行って売春して、東京では小さい女の子まで立ちんぼしているというのに、金貸しはやりたい放題ですか。

例えば、「今の政治家は、なぜ襲われないのか?」
世の中が平和だからでしょうか。警備が厳重だからでしょうか。日本人が平和ボケしているからでしょうか。もう日本人の感覚が麻痺したからでしょうか。窓のない船室にいると、沈んでいることがわからないということでしょうか。
襲われないのはいいことですが、いいことで終わっていいことかどうかは別問題です
道路交通法の「危険運転」の定義にしても、これほど問題がある法律を放置しながら、まだ誰もこの理由で政治家を襲いません。安倍氏は、あの事件を振り返ると、旧統一教会を放置した責任を問われて殺害されましたが、他にもいろんなことで責任を問われて然るべき政治家はたくさんいます。
権限を持つ者の不作為(委ねられた権限を意図的に使わないこと=私利私欲、権力の私物化)は犯罪とみなして攻撃する人がいても不思議はないわけですが、みんな放置です。そして、自分たち、それほど豊かではない者同士で、奪い合い、殺し合いをしています。襲うとしたら、襲う相手を間違っていますよね? これは、テレビで、綺麗事ではなく、正月にやるべき議題ではないかと思います。

例えば、「今の政治家、政党に期待しないと言いながら、新しい、まともな政治家が出てこないのはなぜか?」
石がつく人とか、斎がつく人とか、どこかの市長とか、目立った人はいますが、組織運営ができなかったり、人格的にすでにおかしかったり、お金儲けの匂いがぷんぷんしたり、ただの流行りであったり、正体不明であったり、まともな人はまだ一人も出ていません。なぜでしょうか?

一人一人の日本国民がしっかり考えるといいことではないかと思います。その時、「保守系自由主義」は一つの拠り所となるでしょう。
自ら茹でガエルになるのはやめましょう。生き抜くために、じっとしている時はすぎました。もう、待つ時間は終わったのです。
日本は、日本人の国民国家です。2700年守り抜いた国家です。国民国家になってまだ間がないですが、住民国家ではありません。長く日本に住む日本人の国家です。欧米と成り立ちが違います。しかも欧米の属国ではありません。また私たちは悪い政治家や公務員を食べさせるために、人生の時間を削って働いているのではありません。

保守系の皆さん、保守系の議員の皆さん、連帯して最初の一歩を踏み出しませんか?「保守系自由主義」を、思想的背景として採用してみませんか? 「保守系自由主義党」を旗揚げしませんか? 
まずは人です。日本と日本人のために連帯できる人、支持してくださる正真正銘の日本人を求めています。

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奥冬海優二
ぜひご支援ください! 日本にないのは「まとまりのある考え」だと思っていて、若者が受け継ぎたいと思うような、受け継ぐべき良き日本の「考え」をつくり、伝えることに挑戦しています。 日本の「保守系自由主義」の広報と実行に使わせていただきます。 保守派のみなさん、是非是非ご支援ください!