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「共働き社会」で政治的に認める「自由」はすべての自由ではなく「特定の自由」である

この場所は、日本を未来化し、「共働き社会」の実現を目指す「保守系自由主義」の根城です。
自由の中身はいろいろあって、妄想する自由も、勝手をする自由もあっていい自由です。
では、政治的に保護すべき自由とはどんな自由でしょうか?

欧米のイデオロギーによると、すべての自由を保護するべきということになるようですが、それは、日本には合わない自由です。
例えば、ダラダラする自由はあっていい自由ですが、別になくてもよく、その自由があるもないもその自由人の考えや気まぐれに任されているものです。したがって、政治的に保護する必要はありません。わざわざその自由を侵しにくるものがあれば、自由を保障するまでもなく、別の犯罪で検挙できるはず。この辺の理解が欧米と日本では違っているのです。
放置される自由を私たちは自由と思いますが、欧米では放置できないのです。管理を必要とするような、そんな「不自由な自由」を、私たちは自由と言いません。保護も管理もないところに放置される自由がある。それがいい。古来それが日本人の価値観です

私たちは、どんな人から「自由」を感じるでしょうか?
家を直したり食事を作ったりして余暇(フリータイム)を楽しんでいる人。
お金や時間を気にすることなく各地を旅行している人。
難しい問題を難なくクリアする人。
のんびりダラダラと過ごしている人。
自分の意見を他人の目を気にせずに言える人。

それは、どんな自由なのでしょうか?
放任される自由。等身大の自分を生きる自由。
限界に挑戦する自由。不自由な自分を解放しようとする自由。
自分の運命を自分で切り拓く自由。
我慢すべき我慢を選択できる自由。どの困難を引き受けるかを選択する自由。

それでは、国家が保障する必要がある自由はなんでしょうか?

というのも、ダラダラする自由は保障の必要がない自由。勝手であればよく、見て見ぬふりこそ、その人に自由をもたらすのです。だれでもダラダラすることはあります。あるいは、自由な時間を自由な立ち居振る舞いでいることも自由な姿ですが、見て見ぬふりこそ、自由を謳歌する人に対するあるべき態度であって、評価も関心も必要ありません。

しかし、「挑戦する自由」は、支援なしにはその場を作ることも、そこに参加することも難しい場合も多く、挑戦者が増えることは国益になることから、この「挑戦する自由」は、国民が自分自身に力をつけられるように、エンパワーリングを支援するために、国家が手を貸す必要があります。自由と活力、競争力は、保守系自由主義の主権者の中核的権利でもあり義務でもあり、国家の人的資本の重要な構成要素となります
さらにそこには、挑戦して成功すれば、お金や時間が手に入ることを、国家の制度として構造化しなければなりません。挑戦して成功したのに、お金も時間も手に入らないのでは、誰も挑戦しなくなるからです。
したがって、挑戦することを奨励し、挑戦することを助け、挑戦した結果、その成果に応じて、お金と時間を手にしたことをフィードバックし、それが国民の生き方として、正しい選択の一つであるとして評価し、証明することが重要な課題となります。

そのために、民生部門への国家の法律や強制力の関与(管理や保護)は、できるだけ離れて、最低限にする必要があり、それが自由となります。
日常への強制力の関与は禁止するのが良いものです。その代わりに、日常が円滑に進むエンパワーリングを推進するのが良いのです。個人が自立することでしか、解決しないことはたくさんあるのですから。個人に力をつけない支援は、いかなる支援も支援の垂れ流しになり、永久に災禍を得ることができません。それは、緊急的、臨時的対策としてはあっても、長く続く制度としてはならないことなのです。
法律、警察、強制力で有無をいわせず正義を押し付けて、善良なる一般市民を縛る国は、ことごとく分断、対立、抗争になって、傷を深めているではありませんか。しかもその問題は解決しません。それはなぜか? 正義を決めることは、正義以外を悪に追いやることだからなのです。一方的な正義こそ、悪の発生源であることを認めなければなりません。一つの正義系価値観について、世の中は、それほどキレイデェあありません。「清水不魚住」なのです。だから、十分な議論討論を経たものしか法律にしてはならないのです

欧米のイデオロギーは、ここの理解が足りません。日本は江戸時代から長らく町人文化を築いてきました。その理解によると、権力が強制力を用いて介入しても、うまくいくケースはほとんどありません。大事なことは、国家が国民と共に歩むことであって、正義を打ち立てて、勝手に一方的に矯正していくことではないのです
私たち日本人は、欧米社会とは別の方法を取る必要があります。
なぜなら、日本は、昔から多様性の国家であり、個人に尊厳があり、職人の社会だったからです。文化が違うのです。欧化政策とは、「和魂洋才」でした。「魂は和」だったから、欧化政策を成功させることができたのです。この重要ポイントを外してはならないのです。

現在の多様性はとても難しく、批判や分断、対立、抗争を抜きにできないものですが、多様性とは、本当はもっと身近なもので、要は、「隣の家はうちとは違う朝食を食べている」ということ、「向こう三軒両隣の夕食はみんな違う」ということをニュートラルにあるいはポジティブに受け止めることなのです。マイノリティのために尽くすことが多様性の尊重ではありません。今の多様化の価値観は間違っているし、人権、平等運動も間違っています。
このことに、保守系の人が合意して、日本人として行動を起こさなければ、このまま欧米のイデオロギーの支配を受けてしまいそうです。

問題がこれ以上深刻化しないうちに、保守系決起集結したいところですが、皆さん、いかがでしょうか?そう思いませんか?


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奥冬海優二
ぜひご支援ください! 日本にないのは「まとまりのある考え」だと思っていて、若者が受け継ぎたいと思うような、受け継ぐべき良き日本の「考え」をつくり、伝えることに挑戦しています。 日本の「保守系自由主義」の広報と実行に使わせていただきます。 保守派のみなさん、是非是非ご支援ください!