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ジグソー 第33回

       Ⅶ
 感覚の刺激に背を押されて、一成の記憶の連鎖は呼び起こされたのではないか。音色、肌触り、香り、情景、風味が媒介となって、数片の思い出の端切れが縫い合わされ、懐かしい模様を織り上げたのではないか。そして、色あせほとんど透明に霞んだ残像が、再び淡くかすかな色彩を帯びる。膨大なまだらの空白を少しだけ埋めた薄片の集まりを伝わって、か細い記憶の回路がつながり明滅する。そこに一成はうっすらと貴裕の姿を認め、槇野さんはたーちゃんなのでは、と思うことがあったのではないか。無意識の深海に沈んだ五感の記憶が、新たな感覚の刺激で覚醒されて、意識の浅みへと浮遊してきたのではないか。
 天高く目まぐるしく飛翔する雲雀。空を切り裂いて降り注ぐ鳴き声。暖炉の薪のはぜる音。早朝の雀のさえずり。赤ん坊のお尻の得もいわれぬ柔らかさ。立ちこめる朝靄の軽やかな湿り気。煙の匂い。皮膚にまとわりつく煙の微粒子。爽やかに冷たい風の香り。燻されたチーズの香ばしさ。指からこぼれ口に散乱する触感。波打つ稲穂の黄金色。立ち尽くして空を見上げる親子。抱きしめた子の肌に伝わる温もり。泣きじゃくる肩の震え。ダンボの母の不在。おののく幼子の目。
 一成の感覚の内奥に深く埋もれていたものが、かすかな空気の動きに舞う羽毛のように、ふわりと軽やかに浮かび上がってきたのではないか。
 貴裕の感覚に刻み込まれているのは、一成の背中の頼もしさ。包み込まれる安堵。自転車のペダルの踏み心地。港の公園。姉と自分を抱えて回転する父。頬をくすぐるパパの髪の毛。整髪料の香り。メリーゴーラウンドのように、視界から飛び去っては現れる港の船。ヨットの帆。青い海に光る航跡。目を回して縺れる足元の芝生。転んで間近に迫る芝の緑。一面に漂う草いきれ。二人を見守る一成の優しい眼差し。
 今も鮮やかに甦る、父にまつわる記憶の残り香、余韻、後味、残照、ぬくもり。

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