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ジグソー 第13回

 ある晩、定年を迎える社員の送別会があり一成は酔って帰宅した。その社員の娘が結婚に至るまでの微笑ましいエピソードを修子が事細かに楽しそうに話していると、突然不機嫌になった一成がひと言
「やりにくいんだよ」と小さく呟いた。
「やりにくいって、何が」
「俺は自分の力で何とかやっていけるから、余計なことはしないでくれ。これでもプライドくらいはあるんだ」
「ごめんなさい。出過ぎたことをしたみたいで」と言う修子のことばを遮るように、一成はひと言も発せずに寝室に向かった。
 数日後、いたたまれなくなった修子は自分を見つめ直す機会を求めて、「ちょっと倉兼に行ってきます」とだけ記した書き置きをリビングのテーブルに残して、東京行きの新幹線に乗車した。倉兼は修子の実家の住所の地名である。結局、そのまま修子は実家に居着くことになり、東京で働いていた久美と大学に通っていた貴裕も、以後峰坂ではなく倉兼に帰省するようになる。
 結婚から二十五年後、一成五十二歳、修子四十九歳、久美二十三歳、貴裕二十歳の時のことだった。当初は少し時間をおけば元の鞘に収まるだろうと、夫婦や子どもたちを含め周りの誰もがそう思っていたが、そうはならなかった。「どうして迎えに来ないのかしらね」と、修子がやや苛立たしげな声で言うのを、久美も貴裕も何度か聞いたことがある。

 佐伯は別居の一年半後、修子の父が役員を務め兄も本社に在籍するイケダに居づらくなって依願退職をした。そして、つてを頼らずにハローワークを通して峰坂市にある運送会社の営業部に再就職した。定年の六十歳まで勤め上げ、退職後十五年間は嘱託として再雇用された。その後七五歳で家を処分して、峰坂市南東の郊外にある松柏園に入居した。
 その五年後八十歳の時に認知症の症状が出始め、現在はアルツハイマー型認知症の中期と診断されている。聴力が衰えて補聴器の世話になっているが、それでも時々聞こえにくいことがある。さらに白内障が進行している。八十二歳の時に手術をすることになり入院して予備検査も終えたが、局部麻酔薬点眼の時になってどうしてもいやだと駄々をこね出した。固く目を閉じて体を強ばらせて拒否したのである。

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