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ジグソー 第15回

「いや、婿入りって感覚はないです。僕自身はどちらを名乗っても、夫婦別姓でも良かったんです。たまたま妻の実家が『まきのや』っていう小さなスーパーをやっていて、一人娘の妻が結婚して姓が変わってしまうのを義父が残念がっていたものですから、だったら僕が妻の姓に入ってもいいですよ、ということだったんですね」
 半分は本当だが、貴裕には、あえて触れない理由も実はある。
「ふーん、なるほどね。でも槇野さんの両親は反対しなかったの」
「親は特に何も言いませんでした。姉も結婚して姓が変わったので、風間姓は誰も継いでないんですけど」
「まあ、人は変わらないけど、名前は変わるものだからね。昔の庶民は苗字なんかなかったし、お侍さんは一生のうちに何度も名前を変えたしね」
「そうですね。僕も今ではこの苗字の方に慣れてしまいました」
 貴裕と佑美は都内の大学で、健康科学部リハビリテーション学科理学療法学をともに学んだ同級生である。佑美も理学療法士として働いている。将来引退したら、状況によっては「まきのや」を二人で継承することも視野に入れている。
 しかし、貴裕は改姓にまつわる本心を誰にも、佑美にすら明かしてはいなかった。まず佐伯の名前から離れたい。それには、妻の実家の姓を名乗るほうが、気兼ねなく新たな気持ちで、これからの人生を過ごせるだろう。誰にも、妻にさえ話したことのないその思いを、貴裕はじっと心の奥深く宿していた。父からできるだけ離れたい、という思いを。
 大学卒業後、貴裕は都内のケアセンターに理学療法士として就職し、関東圏を中心にリハビリやマッサージに携わった。七年後、所属は違うが同じ療法士として働いていた佑美との結婚を機に、さいたま市のケアセンターに夫婦で移籍する。マンションを購入して共働きで子供二人を育てた。ケアマネージャーの資格も取り、現場での職務と事業所の管理運営の両方をこなす生活が十数年続いたが、大学の先輩から峰坂市の旭平ケアセンター設立の応援を依頼される。
 長男知哉が中学生、長女美乃が小学生なので佑美がさいたまに残り、貴裕が一年の期限付き出向の形で単身赴任をすることにした。軌道に乗ったら関東に戻る予定だったが、懐かしい峰坂の街の佇まいに惹かれて、貴裕はそのまま正職員になる。そして六年後、美乃の大学入学を機に佑美も旭平ケアセンターに転職して、さいたま市のマンションを引き払い峰坂に居を構えた。

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