見出し画像

ジグソー 第14回

 担当の眼科医は手術不可能と判断して、日常生活は少し不自由でも、現状では手術延期はやむを得ないと結論を下した。現在の視力は風景や人の顔が霞んで、輪郭がぼんやり分かる程度だ。これがさらに低下したり、最悪の場合失明したりする危険もあるが、経過を見ながら必要ならば全身麻酔での手術となる。
 また、その二年後には脊椎ヘルニアの手術を受けた。歩くとすぐ座り込みたくなる跛行と、左足首が垂れ下がって、不随意な歩き方になるドロップ・フットの症状が出ていた。それらは手術でほぼ解消されたが、左太ももと両足指のしびれが残った。後遺症はほとんどないが、再発予防と足腰の筋肉の衰えを防ぐためには理学療法と歩行運動が不可欠だ。そして糖尿病予備軍でもある。ヘモグロビンA1cの値がここ十数年7.0を超えた辺りで推移している。
 松柏園は十二階建てのマンション形式で、居室には佐伯の入居している健常者用と要介護者用の二種類があり、前者が九割以上を占める。縁起を担いで四階と九階と十四階を表示せずに十五階建てと称しているが、実際は十二階建てだ。迷信のために正確な階数表示をないがしろにして、火災や地震の際の救助作業に支障を来すのではないかと心配する向きもある。インテリアの色彩に、金を多用して豪華さを演出しているが、却って安っぽさが透けて見えるという評もある。佐伯は今でも、エレベーターのボタンを見て四階や九階や十四階がないことに気づき、不安になって乗り合わせた人に不思議そうに尋ねることがある。
 居室は車椅子対応の完全バリアフリーで、あらゆる段差を取り除き、玄関以外のドアはすべてスライド式の吊り戸である。夜間電力利用の給湯設備と、電磁調理器が備え付けで、火気は使用できない。附属のレストランは嚥下調整食や介護食にも対応し、居室への配達もする。自家用車、自転車、二輪車の駐車スペースがあり、門限はあるが外出は自由で自炊をする人も多い。
 
 貴裕は、一成との別居後もしばらくは佐伯姓のままでいた。三年後久美が結婚して萩野の姓になった。そして、貴裕はその六年後に結婚した際に、妻佑美の姓である槇野に戸籍を変更した。そのいきさつについて貴裕は、同僚や友人に
「じゃ、槇野さんは長男だけど婿入りしたってこと?」とよく尋ねられた。
 彼は、その度に同じように答えていた。

いいなと思ったら応援しよう!