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入れ歯のひと


#いい歯のために

 洗面台の収納スペースのなかには、歯ブラシ、歯みがき粉、フロス、歯間ブラシ、タフトブラシ、スーパーフロス、それから瓶に入った塩がある。
 子供のころは夜寝る前に歯磨きをしないと母に怒られるからしていた。中学生になると知らないうちに、あっちこっち虫歯ができた。それから少し大人に近づいてきたころ、仕事で外国によく行く父が『あちらの人たちはとても歯のことを気にするんだ。どうかすると、見かけのために自分の歯を抜いて総入れ歯にしたりするんだよ』といった。
 そのとき初めて私の歯に対するイメージが変わった。だって、それまで歯科医院って歯が痛くなっていくものだと思っていたから。まだまだ私の歯に対する考えはその程度。
 虫歯。治療。最悪、神経を抜いて被せ物。この、被せ物は不具合があれば何度でも繰り返せるものだと思っていた。ところが、堅いお煎餅が大好きな私。バリバリ、バリバリ…、何十年も奥歯で堅焼きせんべいを食べつづけた結果、あるとき、右上7番に奇妙な違和感と痛みが走った。なんか、只事じゃないなと思った。すぐ歯科医院に行った。すると、先生が、「うーん」という。なにが、うーん、なの? ドキッ。
「うーん、歯が真っ二つに割れているから、抜かないとダメだね」
 えっ? えっ? これ、永久歯なんだからね。次に、もう出てこないんだからね。(今は三番目の歯が出てくる研究が進んでいるようですが)歯が抜けちゃったら、私、どうしたらいいの?
「部分入れ歯か、インプラントになるね」 先生、こともなげに言う。
 いやだ。いやだ。部分入れ歯なんてとんでもない。うまく喋れないだろうし、食事だって神経質な私にはできないに決まってる。だって、自分の口の中にいつも変な異物があるんだよ。考えただけで気が狂いそう、死んだほうがまし。
「そう。じゃあ、死なれたら困るからインプラントにしようね」
 先生は私に背中を向けて、大学病院宛てに紹介状を書いてくれた。
歯科医院の外に出ると、急に自分が年寄り組に入った気がした。私、歳をとったんだ。
 大学病院でのインプラント計画、開始。2012年4月13日初診。2013年インプラント一次手術、二次手術。12月に完成。それから3ヶ月ごとのメンテナンスに受診。その間、被せ物をしている歯の治療もちょこちょこっと。
 大学病院6階。ブース14で、私は歯科衛生士さんから歯のクリーニングをしてもらいK先生からインプラントのメンテナンスとその他の歯の状態を診ていただく。そのとき、衝立一つ隔てた両隣の会話が自然に耳に入ってくる。どうもそれはいつも私よりも少しお年を召した方々のよう。私はその方々のことを、"入れ歯のひと”と呼んでいる。
「先生、入れ歯が痛くてご飯が食べられんのです」
「二、三日に一度、前歯4本が食事中に抜けて。とうとう一本見当たらんのです」など。だらだら多々。
 年を取ると、やたら話がくどくなるようで、しかも声のトーンが暗ーいの。なかには、最初どこどこの歯科医院に行ってどうのこうの、と、長い入れ歯物語が始まる方もいる。それを延々と聞く先生もこりゃあ大変だなあと思う。先生はたくさんの患者さんを診なきゃいけないから、とっても忙しいの。要点をちゃっちゃっとね。
 朝、起きたらすぐ私は柔らかい歯ブラシで塩を歯肉にあてうがいをする。朝食後に歯磨き、おやつを食べたら歯磨き。昼食後も夕食後も同じ。そして、就寝前には歯のセルフケアのフルコース。歯磨きのあと、スーパーフロス、フロス、歯間ブラシ、タフトブラシ、インプラント専用ハブラシをする。自分が終わったら、次はまるちゃん。どんなに寝ぼけていても、「まるちゃん、歯磨きタイム」というとお口をあーんと開ける。歯ブラシでシュッシュ、タフトブラシでキュッキュッ、歯磨きシートで息さわやか。犬だって、歯が命。
 さあ健康寿命を延ばすために、今日も一日がんばるよ‼

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