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列仙酒牌:嫦娥 [じょうが]

(讃)碧海青天夜夜心 :碧色の大海原、青々と広がる天空、夜々の思い
(酒約)貌殊衆者飮:人並み優れた美人は飲め

<列仙酒牌 嫦娥>

中国の古い話などに関心が全くない方でも、嫦娥という名前をTVや新聞で見たことがあるかもしれません。
現在の北京の中国政府が力を入れて進めている大計画の一つに「嫦娥計画」というものがあります。月面着陸を行い、将来的には月での長期滞在を目指す一大プロジェクトです。

このプロジェクトの名前となっている嫦娥は、神話伝説がほとんどない言われている中国に残っている数少ないお話の主人公です。
もともとは、羿という人(神)の妻の名前です(時には恆娥、常娥とも書かれます)。
羿は弓の名人で手柄を立て、西王母から褒美に不死の霊薬をもらいましたが、妻の嫦娥がそれを盗んで一人で飲み、月に行ってしまったという、中国ではだれでも知っているレベルの伝説です。日本で云ったら「かぐや姫」のようなもんでしょう。

この嫦娥の話は淮南子(覽冥訓)が出処であり、そこには次のように書いてあります。
「ある時、羿は西王母から不死の薬を請い受けてきた。すると彼の妻の恆娥がその薬を盗んで月の中に奔った。羿はおいかけるでもなく、がっかりし、茫然自失だった」。

『捜神記』にも同じ話が載っており、そこでは嫦娥が月への旅の吉凶を占ってもらった話と月に行った嫦娥が蟾蜍(ひき蛙)になったという話が付け加わっています。こういったことから、嫦娥は月の精とされたり、月の女神と言われたりするようになりました。

正体不明の女の人はいつの間にか絶世の美人とされ、その話が伝説化されて行くのが一般的な傾向のようです。
中国でも他の例を挙げますと、西王母という女神が居ます。周の穆王が西王母の国を訪れて酒盛りをしたとか、漢の武帝のところに西王母が降臨したりとか、あまつさえ『西遊記』にも登場したりする伝説の世界では大活躍をしている女神です。
しかし、この西王母は、もっとも古く登場する『山海経・西山経』では「豹の尾、虎の歯ありて善く吼ゆ(西王母其状如人。豹尾虎齒而善嘯。)とどう考えても美人とは思えません。しかし時代が下ると『漢武帝内伝』では非常な美人として表現されるようになっています。

嫦娥についても、古い資料では容姿のことは触れられてありません。
しかし時代がくだり、唐の時代に入るといつの間にか嫦娥は中国を代表する美人とされるようになっていました。
李商隠の七言絶句『嫦娥』もそういった「嫦娥は非常な美人」伝説を元にして書かれています。詩の全文と私訳を付ければ、次のようになります。

嫦娥 李商隠
雲母屏風燭影深  きらきらと輝く雲母の屏風に、蝋燭の光が瞬き、
長河漸落曉星沈  天の川は西に傾き、暁の星も消えかかっている
嫦娥應悔偸霊薬  嫦娥は霊薬を盗んだことを後悔しているんだろうか?
碧海青天夜夜心  碧色の大海原、青々と広がる天空、
            嫦娥を思う私の夜々の思い

『列仙酒牌』の讃には、この詩の最終句がそのまま使われています。
酒約の方は、具体的には「女の人は皆んな飲め」です。「貌殊衆者」じゃない女の人などいるわけはないですから…

嫦娥伝説をはじめ中国の故事伝説は面白いものがありますが、それを読みやすいようにまとめてある書物を知りません。生真面目な本では個々の断片的な資料をバラバラに載せているだけで、気楽に楽しむことができません。

中国の神話・伝説に関しては、今でも森三樹三郎『支那古代神話』を越える本を見たことがありません。中国でわりかし新しく出た某氏の神話の本・辞典がありますが、正直、金を出して買うほどの内容はない、と思っています(本棚にはのっていますけど…)。

魯迅は近代中国の代表的な作家であることは知られていますが、中国の小説の歴史の研究家(『中国小説史略』)でもあり、中国古小説の編纂者(『唐宋伝奇集』)でもあります。当然古い時代の伝説にも非常に詳しい方です。

その魯迅が書いた『故事新編』は、中国の神話~古い時代を題材にした短編集です。

もちろんこれらは魯迅が書いた小説です。しかし、元となる神話・伝説はきっちりと踏まえているので、某国国営放送局の大河ドラマとは比較にならない安定感があります。こういった趣向の本を中国でも別人が書いたのもあったかと思いますが、昔に捨ててしまっているので、作者も書名も記憶にありません。

元々は淮南子に書かれている程度の内容の嫦娥伝説も、この魯迅の「奔月」で読むことによって、生き生きしたものとして記憶に残るようになります。さすが魯迅と感じます。中国の古い神話や伝説に興味があるなら、ぜひこの魯迅の短編集を読んで欲しいと思っています。

【蛇足自注】

嫦娥という名前
伝説の中では、もともとは姮娥と書かれていました(譬若羿請不死之藥於西王母。姮娥竊以奔月宮。悵然有喪。無以續之。<『淮南子・覽冥訓 』>。
しかし、漢の文帝の名前が姮であったので、漢人は姮娥を改めて嫦娥としました。これ以降、この女人の名前は嫦娥と書かれるのが一般的になりました。
嫦と発音の同じ常を使って、常娥と書かれることもあります。

魯迅『故事新編』の目次
補天(天を補修する話)…女媧伝説
奔月(月にとび去る話)…嫦娥伝説
理水(洪水をおさめる話…禹の治水伝説
采薇(わらびを採る話)…伯夷と叔齊の話
鋳剣(剣をきたえる話)…宝剣の話
出関(関所を出ていく話)…老子と関尹喜の話
非攻(戦争をやめさせる話)…墨子の話
起死(死人をよみがえらせる話)…荘子の話

【参照】

『任渭長木刻画四种』<学苑出版社、中国>
『酒牌』<山東書籍出版社、中国>
『淮南子・覽冥訓』<維基文庫@net>
「月の精」<竹田晃訳『捜神記』収載、平凡社東洋文庫>
『山海経・西山経』<高馬三良:平凡社>
『漢武帝内傳』<五朝小説大観:上海文芸出版社>
李商隠「嫦娥」<松浦友久『続校注唐詩解釈辞典:大修館書店>
森三樹三郎『支那古代神話』(東亜人文撰書、大雅堂)←復刻版があるとか
魯迅「月にとび去る話」<竹内好訳『故事新編』収載、岩波文庫>
青木正児「月と兎」<『中華名物考』収載、平凡社東洋文庫>


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