人彘事件(張良と商山四皓続き)
ここで呂后についてまず一言書いておきましょう。
呂后は漢の高祖の皇后です。学校の歴史的に書けばこれで全てです。
ただ物好きはもうちょっといろんなことを突っつきたくなります。
まずは高祖と呂后のなれそめの話から始めましょう。
若い頃の高祖は、まぁ何かをしでかしたのでしょうが、仇として狙われるようになりました。
そのため沛県の県令と仲が良い呂后の父の呂公のところに客として滞在するようになりました(單父人呂公善沛令,避仇從之客,因家沛焉)。
『史記』にはこれしか書いてありませんが、どっかで人でも殺して居場所がなくなり、呂公配下の暴力団に潜り込んでいたといったところでしょうか 。
後に漢の宰相となる蕭何は、この頃は沛県の主吏を勤めており、呂公の家の宴などでは世話役をやっていました。
ある宴の時、蕭何が取り仕切って「進物が千銭に満たないものは座敷に上がらせない」と指示していると、高祖は金を持っていないのに「進物料一万銭」と書いて出しました。呂公は驚いて門まで出迎いました。
蕭何は「あの男は大きなことを言うが、ほとんど何もできたためしがない」と言いましたが、呂公は高祖を上座に据えました。
呂公は人相が見るのが好きで、高祖の容貌を見て気に入り、「わしは子供の頃から人相を見るのが好きでしたが、あなたに及ぶ者はなかった。私には娘がいるが、ぜひ掃除婦代りに使ってくれ」と言った。
宴が終わってから、呂公の妻は「この娘は常人とちがうから貴人に嫁がせたい、と言っていたじゃないですか。県令が娘を欲しいと言った時にも断ったのに、どうして劉季なんかに」と怒ったが、呂公は「女子供にわかる話じゃない」と言って劉季(後の漢の高祖)に嫁がせた。
この話から見えるように、呂后の実家は沛県の顔役であり、呂后はその家付娘でした。
陳勝の乱で混乱した沛をまとめ、県の役人(後に漢の中核となる蕭何・曽参・攀噲)を内応させて県令を殺し、三千人の軍隊を率いて豊の地方を安定させるのに、呂公(呂一族)の力は不可欠なものだったでしょう。
高祖が天下をとっても、呂后は内心では「呂家の力で取った天下」と思っていたとしても不思議ではないでしょう。
呂后とは、こういった立場の人でした。だから、次の時代も「呂家の血を引く」皇太子が即位するのが当然であり、それ以外は反逆でしかなかったでしょう。
漢の高祖が崩じて、自分の息子が太子が孝惠帝として即位しました。この時、戚夫人の子の如意は趙王でした。
如意が無事に成長すれば、自分の子の勢力を脅かす存在になりかねない → 危険は前もって取り除くべきである、となるのは、まぁ理の当然。
呂后は戚夫人をとらえ、趙王を長安に召喚しました。
趙の宰相は趙王の身の安全を考え、趙王が都に行くことに反対しましたが、呂后は趙の宰相を都に呼び寄せ、その間に別に使者を出して趙王を都に召喚しました。
孝惠帝は呂后の企みを察し、自ら趙王を出迎えて一緒に宮廷に入り、起居飲食を共にしました。たまたま孝惠帝が早朝狩に出かけ、幼少の趙王は早起きできませんでした。これを知った呂后は、人を送って趙王に酖毒を飲ませ殺害しました。
次は戚夫人の番です。単に後継者争いだけの話でしたら、危険な如意は殺しましたので、これで終わりです。しかし呂后としては、女としての怨みと憎しみも当然あったでしょう。
呂后は戚夫人の手足を断ち切り、眼球をくりぬき、耳を熏べてつんぼにし、瘖薬を飲ませて唖にし、便所の中において「人彘(ひとぶた)」と名づけました。これが中国後宮の残虐物語の筆頭に挙げられる「人豚事件」です。
呂后は、孝惠帝と呼んで人彘を見せました。孝惠帝はそれが戚夫人であることを知って大声に泣き、その為病気になっってしまいました。
そして、孝惠帝は毎日酒を飲んでは淫楽し、政治を顧みなくなってしまいました。この為、『史記』では孝惠帝を皇帝とは認めず、単に「孝惠」と表記しています。
なお、『漢書』では卷二「惠帝紀」を立て、その讃は「寛仁の主というべき人である。呂后に遭ったことによってその至徳が損なわれてしまった。悲しい事である(可謂寬仁之主。遭呂太后虧損至德,悲夫)」で結んでいます。
また、呂后の人彘事件の後に、孝惠帝が政務を顧みなくなったことを受けて、宋の時代の儒者司馬光はその著書『資治通鑑』で孝惠帝を「小仁に篤というべきも、未だ大宜を知らず」と評しています。
孝惠帝は、高祖とは違って、人に親切で気配りのきく人ではあったが、皇帝のような地位には不向きな人物であったのでしょう。皇帝らしい皇帝であった高祖と皇后らしい皇后であった呂后の間に生まれた心優しい悲劇の人ともいえるでしょう。
張良の商山四皓を使った策も、結局は戚夫人を 人彘にして終っただけの話だったのかもしれません。
【煩注】
高祖について
高祖は沛の豊邑の陽里の人。姓は劉、名前は季、父は太公と言い、母は劉媼と言った(高祖,沛豐邑中陽里人,姓劉氏,字季。父曰太公,母曰劉媼)。
ここで注意しておくことは、高祖の名前の季は「末っ子」という意味である。現代中国語でも季弟(jì dì )は末っ子である。
言ってみれば、劉の家の末っ子と言っているだけであり、中国での伝統的な「名」は持っていないということである。
高祖を「劉邦」と呼んでいることもあるが、『史記』にも『漢書』にも「邦という名」は書かれていない。この「劉邦」という立派な名前が現れるのは、高祖の没後四百年経ってから書かれた後漢の荀悅の『漢紀』という編年体の史書が最初との事である(未見)。なお、荀悅は『三國志』関連の話で知謀の士として名高い荀彧の従兄弟である。
また、父親の「太公」はおやじさんという一般的な呼び名であり、母親の劉媼も劉ばあさんという呼び名である。
要するにこの一家はまともに「名」を持っている人がいないのである。
さらに言えば、この時代でも一応は父系継承の中国で、高祖の姓は母方の劉である。
これらを勘案して考えれば、高祖の父親は名字も名前も伝わっていない「単なるおっさん」であり(今のTV式に言えば、職業不詳、自称○○)であり、母親はそんなおっさんとくっついて子供をつくっている「劉ばあさん」であり、高祖は「劉の家の末っ子」とだけ呼ばれていた劉ばあさんの私生児であったであろうと推測される。
中国の史書の凄味は、こういった事実を事実として淡々と書き記しているところにある。
呂后の所業(原文)
太后遂斷戚夫人手足,去眼,煇耳,飲瘖藥,使居廁中,命曰人彘。
斷 たつ(絶)、きる(截)、きりはなす
斷は物を二つにたちきること、又物の中たえることにも用う。
絶は絲のきれたる義。物のきれてあとの無きをいふ。
截はきりたつ義。絶と略ゝ同じ。絶句を截句とも書く。
(『字源』同訓異義)
去 のぞく(除)、とりのける
煇 〔クン〕ふすべる(薫)。
「煇耳」は、薬にて耳をふすべて聾にする。
瘖 〔イン〕おし(唖)、言ふこと能はざる病=喑
瘖薬〔インヤク〕:おしになるくすり
厠 〔シ〕かはや、べんじょ
彘 〔テイ〕ゐのこ。ぶた。(説文)彘、豕也。
人彘〔ジンテイ〕豚の如き人といふ意。彘は牝豕
【参考】
山口修「漢の高祖の本名」(『中国史55話』所載、山川出版社)
野口定男他訳『史記』(中国の古典シリーズ、平凡社)
『史記』卷八 高祖本紀@web維基文庫
『史記』巻九 呂太后本紀@web維基文庫
司馬江漢『訓蒙画解集』(菅野陽校注『訓蒙画解集・無言道人筆記』、東洋文庫、平凡社)