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商山四皓の話(漢・張良)
先にも書いた張良ですが、張良の事績をしてあげられる一つに「商山四皓」の話があります。
いかにも張良らしい話です。
張良という男は人の意表に出ることの多い人物です。他人では思いつかない、若しくは無理とあきらめることを計画・実行してきた男です。
張良の伝記の最初に描かれる秦の始皇帝暗殺未遂事件にしてからがそうです。剛力無双の壮士を雇って、重さ百二十斤(約60kg)の鉄の槌を始皇帝の車に撃って暗殺しようとしたわけです。
漢の高祖の晩年に、跡継ぎをどうするかという、お決まりの問題が生じました。
高祖には呂皇后との間に盈之という子供があり、早くから皇太子に立てられていました。普通ならこれで問題は生じないわけです。
が、高祖は無類の女好きでした。年を取ってから好きになった戚夫人に如意という子供ができると、戚夫人の要望もあったろうし、この如意を跡取りにしたいと考えるようになりました。
大臣がさんざん諫めましたが高祖は聞かず、高祖とさらに対決してまで皇太子の交代に反対しようとする人はいませんでした。太祖は『ついには不詳の子(太子)を愛子(如意)の上におらせはしない』として、太子をかえようとしました。
呂后はこの状況をなんとかしようとして建成候(呂釈之、呂后の兄)を使って張良を脅し、策を考えさせました。この時張良が出した案が《商山四皓を招いて賓客とし、時々太子(盈之)と一緒に入朝して陛下の眼にとまるようにする》というものでした。
商山四皓とは、秦の末期に戦乱の世を避けて商山に隠棲している四人の賢者(東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公)を指していて、彼らは高祖が招聘しても応じていなかった人たちです。
張良は考えたでしょう:一旦言い出したら他人の意見など聞かない高祖に皇太子の変更をどうやって諦めさせるか。
張良は高祖の隠している弱点を見て取っていました。
高祖は学者や儒者に高慢で無礼な態度をとっていましたが、それは内心で学問とか礼儀に引け目を感じていることの裏返しであることを。
だから賢良の士に皇太子を補佐させ表向きを整えれば、政治的工作は呂后がするだろう。
ある程度まともな連中はすでに役人として取り込んでいるから、その他となると…と考えて商山四皓に思い当たったのでしょう。
「隠者となって商山に隠れ住む」といったって、おっさん四人がのこのこ山に入って生きてゆけるわけがありません。
まず雨露をしのいで寝るところが必要でしょう。字の読めるような知識人は、若い頃から勉学一筋、料理や水組みなんてやったこともないでしょうから、身の回りの世話をする従僕が必要でしょうし、定期的に食糧も届けてやらなければならないでしょう。さらに、書物や酒もたまには送る必要があるでしょう。大変な手間と金がかかります。
また、隠者と言われるには、「山に籠っている優れた人物」ということをあちこちに宣伝してくれる人たちも要ります。単に山に籠っているだけではすぐに忘れ去られてしまいます。
「立派な人で、世を避けて山に住んでいる」という謳い文句(今の言葉で言えばキャッチフレーズ)が忘れられたら、手間のかかる引きこもりのおっさんでしかありません。だから、しかるべき人達との話でそう言った話題を折々に語ってくれる友人たちは必要不可欠なのです。そして、話題となるそういった友人たちとの詩文のやり取りも必要です。
それを長年にわたって行うには、相当の経済力・人脈が必要となります。
中国という国は、日本と違っています。どちらも中央政府は厳として存在し、各地に出先の機関があって、中央の指令が末端にまで届くようになっています。ただ日本と違うのは、中央政府が地方機関に派遣するのは長官と軍事責任者、いまの日本に置き替えれば、県知事と県警の本部長位であって、後は地方まかせ。地域のことは地域の有力者が仕切っている感じです。中央から派遣されるお偉いさんが官(官僚)であり、地方で採用して実質仕事をしているのが吏(吏員)です。この辺りは、時代は違いますけど、『水滸伝』などに上手に描かれています。
商山四皓も当然その地域の有力者の構成員です。その親戚縁者は当然地方の行政機関の顔役でもあります。そして張良は漢の丞相です。
張良の意向が「商山四皓を都に呼び寄せる」であれば、下はそれを実現するように動きます。中央政府のお偉いさんに逆らったってなんの得にもなりません。
だから張良は「呂后・太子から商山四皓を招聘する文書が出るから、文書が着き次第商山四皓を間違いなく都に送り届けろ」とだけ内々の指示を出したんでしょう。
言われた方では、商山四皓が生きているなら出すしかないでしょう。地方の役所は中央政府の意向には従うしかありませんし、商山四皓の各人だって、これまで面倒をみてくれて来た一族に迷惑をかけるわけにはいかないでしょう。たとえ死んでいたり、病気で出てこれなかったりしても、一族の誰かを代わりに本人として差し出すほかないでしょう。まぁ本人以上にそれらしく見える人間がおれば、そちらを出すことは厭わなかったでしょう。
というわけで、張良としては、殆ど間違いなく「商山四皓」が出てくるのが判っていたのでしょう。
酒宴をひらいたときに、太子は高祖の側に持した。あの四人が太子にしたがった。年齢はみな八十有余で、髭眉は真っ白であり、衣冠は非常に堂々としていた。高祖はあやしんで問うた。
「かれらはなにをしている人物か」
四人はすすみでておのおのその姓名を名乗った。
「東園公・甪里先生・綺里季・夏黄公であります。」
高祖は大いに驚いて言った「わしは、数年にわたって公らをさがし求めたが、公らはわしから逃避していた。いま、公らはどうしてわが子につきしたがっているのか」
四人はみな言った「陛下は士たるものを軽んじ、よく罵られます。臣らは辱めを受けたくないと相談し、それ故に、恐れて匿れておりました。ところが、ひそかに、太子のお人柄が仁孝恭敬で士を愛し、天下の人々が頸を長くして太子のために死のうと望まないものはないと聞きましたので、やってきたまでです」
太祖はこの四人を目送し、戚夫人を召して四人を指さして言った「わしは太子をかえようとのぞんだのだが、あの四人が太子を輔けている。羽や翼ができあがってしまって、もはや如何ともすることができない。呂后はまことにそなたの主人だ」。戚夫人は泣いた。
これで勝負はつきました。漢の次期皇帝の選定に関与したのですから、張良の大仕事の一つでしょう。
まぁこの後もっと別の事件が起きますが、それはそのうちに...
【煩注】
孝惠帝についての高祖の言葉
『終不使不肖子居愛子之上』 (『史記・巻第五十五』留候世家第二十五)。
またこれに続く箇所で、黥布の叛乱に太子を総帥としておくる件で、高祖は「わしも、実はあの小僧では、派遣しても心もとない思っている。わしが自ら行くほかあるまい:上曰「吾惟豎子固不足遣,而公自行耳」と語っていることです(『史記・巻第五十五』留候世家第二十五)。
ここで注目しておきたいのが、太子のことを高祖が「不肖子」「豎子」と呼んでいることです。
「高祖本紀」では特に何も記してはいませんが、「呂后本紀」には「孝恵の人となりは仁弱で、高祖は自分に似ていないと思い、常に太子を廃して戚姫の子の如意を立てようとのぞんでいた(孝惠為人仁弱,高祖以為不類我,常欲廢太子,立戚姫子如意)」と書いています。
要するに皇太子(孝恵)は自分に似ていない駄目な奴と判断していたということで、単に戚夫人可愛さだけの話ではなかった、ということです。
張良の策
張良は言った「高祖が招聘できなかった年をとった四人がいる。高祖を他人を侮る人と見て山に隠れている。太子の書を持ち、金を惜しまずに腰を低くしてお迎えすればきっと来てくれる。高祖はこの四人が賢いと知っているので助けになる」。呂后は呂沢に言いつけて太子の書を商山四皓に届けさせ、腰を低くし厚い礼を保って四人を迎えた。四人は到着し、建成候の客となった。
留侯曰:「此難以口舌爭也。顧上有不能致者,天下有四人。四人者年老矣,皆以為上慢侮人,故逃匿山中,義不為漢臣。然上高此四人。今公誠能無愛金玉璧帛,令太子為書,卑辭安車,因使辯士固請,宜來。來,以為客,時時從入朝,令上見之,則必異而問之。問之,上知此四人賢,則一助也。」於是呂后令呂澤使人奉太子書,卑辭厚禮,迎此四人。四人至,客建成侯所。
【参照】
野口定男訳『史記』(平凡社)
本田済編訳『漢書・後漢書・三国志列伝選』(平凡社)
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