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「宗教間対話」と「宗教者間対話」|第12回宗教マイノリティ理解増進勉強会【下】

「宗教者間対話と共生共栄」をテーマに「第12回宗教マイノリティ理解増進勉強会」を9月21日に行いました。キリスト教の中川晴久牧師や新宗教団体の元役員、そして家庭連合東東京エリアの岡光君啓大教会長や信徒ら約20名が参加、活発な意見交換が行われました。


意見交換

「宗教間対話」と「宗教者間対話」の違い

とも(主催者)
中川牧師は、「宗教間対話」ではなく「宗教者間対話」とよく言われてますが、そのニュアンスや違いは何でしょうか。

中川晴久さん(主の羊クリスチャン教会主任牧師)
「宗教間」と言うと、宗教の教義をすり合わせることになる。あなたはどうなのとか。

うちの研究所の所長が言ってたんですけど、欧米的な思考は、「イエスかノー」をはっきりと判断する、選択するというのが理性的なあり方なんだと。

一方で「日本人は弁証法が好きだよね」と言っている。弁証法は欧米人の思考法だと僕は思ってたんですけど、違うということなんです。

「イエスかノー」のどちらかを選択するのが理性的で、その中間にあるものは感情的なもの。そういう発想がどこかにあるから「日本人にはキリスト教が分からない」と。

逆に言うと、東洋はむしろ弁証法的で、「正(テーゼ)」と「反(アンチテーゼ)」があったら「合(ジンテーゼ)」が生まれる、何かが生まれるみたいなのがある。だから対話をする中で「気づき」がある。

とも
「宗教間対話」というと「宗教と宗教」「教団と教団」みたいな、そんなイメージかな。

「宗教者」というと同じ宗教の中でも、いろいろな人がいる。一人ひとり違う。家庭連合の信徒にもいろんな人がいる。そんなイメージですかね。

中川さん
アメリカが、いろんな宗教が入ってきた時に教派間対立がすごくて、その時にボランティアという発想が流行った。ボランティアというのは「(自由)意志」で、一つの目的のために行動する。

家庭連合さんがボランティアをすると、「宗教を隠してる」と言われるけど、宗教をおいて意志でコミットするのがボランティア。宗教を前面に持ってくるものではない。むしろそれを退けて、意志でそれぞれの教派が出会う。

宗教者が宗教を排除というか宗教性を落としてコミットするから、僕はボランティアはよくないんじゃないかなと思っていた。

でも、そうじゃなくて、もっと積極的な意味があって、目的のためにコミットする時に違う宗教者同士が出会って、同じことに汗を流す。そこに新しいもの、「気づき」も生まれる。だからボランティアは大切だなと思います。

A男さん(家庭連合、壮年)
同じ宗教で分裂するのはどうしてでしょうか。

B男さん(新宗教団体元役員)
うちの宗教団体でいうと本部は、やはり血統なんですよね。教祖がいて、非常に強い求心力を持って、いわゆる本家ですよね、一般で言うところの。

だから、作法は変わらないんです。教理もそのまま踏襲するので、ずっと続くんですよ。

これは老舗の饅頭屋も多分同じだと思います。長男が継いでいくけど、お客さんの方で、「これは初代の頃と味が違うよね」となって、味が変わったとしても初代を継いで続く老舗の饅頭屋なんです。

宗教団体だと、天啓があったりして、天啓の方を信じると分派として扱われたりする。

分派は神霊的なところが多い。神がかり的な人とか。だから、分派は教えが変わっていく。一方で本部はそのままなんです。

中川さん
「宗教者対話」で「宗教間対話」のヒントを出すのはいいけど、「宗教対話」という「目的」を作ってしまうと、多分、皆が引くんじゃないかな。ヒントだけを出して、あとは皆で考える。「共生していくのがいいでしょ」みたいな感じでするのがいいと思う。

真理と神霊

とも
他の宗教と「一緒に何かしよう」というのはいいと思う一方で、宣教をする場合、キリスト教だと、いろんな世界に行って、まだキリストを知らない地に伝えにいく。自分たちの教えが神様から与えられた最高の教えという自負心とか使命感もあって、世界宗教に発展したという点があると思うんです。

宗教者は自分が信じている宗教が一番良いと思っている。それで伝道する、伝えようとするわけですね。

これが「宗教間対話」と言った時に、いろんな宗教が並列みたいな感じになる。そうなると、どうなるのかなという思いがある。

A男さん
キリスト教がなぜこれほど世界に広がったのか。それは、その真理性ではなく、聖霊の働きだと思うんです。「真理と神霊」だと思うんですよ。

言葉は聞いているけれども、気持ちを捉えていないというのがありますよね。

例えば、子供が泣いてる時にその泣き声は聞こえるけど、それがオムツなのか、お腹が空いているのか、つまり気持ちを捉えられていない。

それで真理性で進めていくと、気持ちの中に入らないので分裂が起こる。

この教えは正しいと。でも言葉ではダメなんですよ。その背後に、結論的に言えば、愛で一つにならないといけない。

真理性を優先すると、どうしても「宗教対話」になって、勝ったか負けたかになる。それで排他的になってしまう。

でも、正しいか間違いかはおいて愛し合う、いつくしみ合う、そういう気持ちが先にあれば、相手がカトリックでも、プロテスタントでも、家庭連合でも、その人が困ってることを助けてあげるというのに、何の宗教かは関係ないわけです。

それと「宗教者間対話」なんですけど、宗教者は何のためにするのか、無神論者(無宗教者)のためにあると思うんですよ。信仰していない人がいかに幸せになるかを、あなたが犠牲になって教えてあげなさいと。

そうした時に、真理は関係ないんですよね。無宗教、神様を信じてないから、神様がこう言ってる、ああ言ってるという会話をしたら、信仰持ってない人は入ってこれない。

だから、信仰を持たない人たちがどうしたら幸せになるかを、宗教を持ってる人が集まって考えましょう、というテーマじゃないと永続性がなくなると思う。

B男さん
私は21歳の時に、この宗教に出会って感動したことがあります。一つは、「お天道様が見ている」、誰かが見ていなくても、良いことをしたら良いことが、悪いことをしたら悪いことが返ってくるという世界があることに気づかされた。実際に返ってくるんですね。

どんな信仰か神様かというのは別にして、この世は蒔いた種が刈り取られるという世界。それを信仰心というかは別にして、そういう畏敬を持った、そういう考え方を大切にしていく方がいいんじゃないかなと思いますね。

愛と祈り

岡光君啓さん(家庭連合東東京エリア大教会長)
「宗教者間の対話」というスタンスですけど、今日のこの時間を通して「なるほど」と思わされました。

私と渡辺一喜(南東京エリア)大教会長は二世信者なので、その立場から見て、真理を与えようとすると、どうしてもマウントを取ろうとする。そういう雰囲気は平和を願っている立場からすると、それ自体が葛藤を生み出してしまうような、そんな傾向にあるんじゃないかと感じています。

何が一番なのか、自分が正しい、相手が間違っている、というスタンスではなく、真理を相手に押し付けるのではなく、「あなたのことを知りたい」というスタンスで近くなる姿勢に惹かれたんだなと思いました。

中川牧師が参加していますけど、キリスト教のことを知りたいからと中川牧師に近づくのではなく、中川さんのことを知りたい。そういうスタンス。もちろんその中にはキリスト教のこともあるし、またその歴史もあっていい、それが本当の平和に繋がっていくんじゃないかなと感じました。

宗教和合の目的を強調しすぎると、どうしてもマウントを取るような雰囲気を出してしまう、本当にその通りだなと感じました。

中川さん
アウグスティヌス(ローマ時代の神学者)が、「知るために信じる、信じるために知る」みたいなことを言ったんですね。

ところが、中世になって「フランシスコ会」が、「愛するために信じる、信じるために愛する」みたいなこと言ったわけです。それで中世で最大学派になった。

人と人の出会いは愛ですよね。だからそこを見つめていけば傲慢にならずに済むのかなと。

僕もキリスト者になる時に、異端論駁をしたくてなったわけではない。でも、気づいたら目が血走って…。

もっといい人になりたいとか、そういうことですよね。

フランシスコ会は「主意主義」と言うんです。「意志」があると。

「主知主義」の「知」に対して「意志」を強調するけど、それを愛に置き換える。

ボランティアも意志じゃないですか。だけど愛なんですよ。そこが重なってるなと気づきました。

C男さん(家庭連合、壮年)
私は家庭連合の信仰を持って50年近くになるんですけど、愛の実践と言いながら、なかなかその境地に立っていなくて、ために生きると言って、ために生きてない。

そういう点で、皆さんがおっしゃるような宗教間ではなく、宗教者の対話に努めていくことは、これからの発展を感じます。

私の所属している教会のある新宿は、成人式の半分は外国人が参加する地域です。他の文化の人たちは日本の文化を非常に興味を持っています。

だから、日本の文化を大事にしながら、宗教を大事にして、共有できれば、いいかなと思いました。

A子さん(家庭連合、婦人)
私の長女が高校生なんですけども、友達が親に反発して家出して、GPSとか全部切って、それで私、祈ったんですよね、自分の娘のお友達だから。

でも、本当にそうやってると、帰ってきたんですね。やっぱり祈りってすごいんだなというか。

それは宗教やっていなかったとしても、自分の子供を思う気持ちとか、ご主人を思う気持ちはみんな一緒で。

祈りは見えないから、祈っても、という人もいるんですけど、祈りってすごいなと思います。

最近すごく感じたことがあって、どの宗教もそうやって見えない力を信じてるし、感じてるし、そういう中で、祈る力、祈って祈って、愛によって、その力はすごいなと最近感じています。

「何の宗教」「何の宗教」とかではなく、一人ひとりいろんな個性があるので、その人が立派に育っていくように祈っていくのは、すごく大切だなと思いました。

とも
皆様、今日はありがとうございました。

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