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宗教者と無宗教者|第11回宗教マイノリティ理解増進勉強会【上】

「第11回宗教マイノリティ理解増進勉強会」を8月23日に都内で行いました。家庭連合からは大学生、青年、壮年、婦人ら15名、そして2つの新宗教団体から3名の合計18名が参加しました。

今回は「宗教と無宗教」をテーマに発表、その後、意見交換を行いました。以下は、「宗教と無宗教」について発表した内容の要旨です。

宗教と無宗教

日本では自分を「無宗教」と思っている人たちが多いので、日本で宗教についての取り組みを考えるにおいて、「無宗教」についての理解も必要だと思います。

東洋経済オンラインに「『日本人は無宗教』と信じる人が気づいてない真実」(2022/10/25)という記事があったので、それを参考に「無宗教」についてまとめてみました。

無宗教とは

記事では、宗教を「人知を超えた存在に対する信仰と、それに伴う儀礼や制度」と定義、「日本人の7割以上が信仰や信心を持っていないと公言している」(統計数理研究所「国民性調査」2013年)、「日本は人口に占める『無宗教』の割合が高い、世界でも有数の国」(アメリカの調査機関ピュー・リサーチ・センター)との調査を紹介しています。

「無宗教」につては、宗教学者の阿満利麿(あまとしまろ)氏が唱えた「創唱宗教」「自然宗教」という区分けと、日本特有の宗教に関する歴史と事情が説明されています。

  • 創唱宗教:特定の人物が特定の教義を唱え、それを信じる人たちによって構成される宗教

  • 自然宗教:教義が特になく創始者も特にいない自然発生的な宗教

多数の人々が神社に初詣に出かけ、お盆の時期には故郷に帰る。これこそが「日本人の多くが『自然宗教』の『信者』である証拠」

東洋経済オンライン「『日本人は無宗教』と信じる人が気づいてない真実」

明治以降・・・神道を国家の祭祀を担う神社神道と、布教・教化を担う教派神道に分けることで、前者を「非宗教」、後者を「宗教」と位置づけ直した。

東洋経済オンライン「『日本人は無宗教』と信じる人が気づいてない真実」

概念的にも「宗教」の定義に値するのは、キリスト教や仏教など高度に体系化された教義を持つものとされていた

東洋経済オンライン「『日本人は無宗教』と信じる人が気づいてない真実」

こうした背景から、日本で宗教といえば「創唱宗教」を意味するようになり、自然宗教などへの宗教心があったとしても「無宗教」という感覚になったということです。

無自覚の宗教性

宗教学者の稲場圭信氏は日本人の宗教の特徴として「無自覚の宗教性」を唱えていてます。宗教性はあるが、それを宗教として自覚していないため、日本人の多くは自らを「無宗教」と思っているということです。

稲場氏は、「無自覚の宗教性」について、「無自覚に漠然と抱く自己を超えたものとのつながりの感覚と、先祖、神仏、世間に対して持つおかげ様の念」(『利他主義と宗教』123頁)と説明しています。

信仰者と無信仰者

神学博士で法学博士でもある櫻井圀郎(さくらいくにお)氏は、「櫻井圀郎事務所」のウエブサイトで「信仰者と無信仰者」の特徴などについて整理しています。それを参考に信仰者(宗教者)と無信仰者(無宗教者)の違いをまとめてみました。

まず信仰者と無信仰者では、善悪とか正義の捉え方に違いがあるということです。

信仰者は、「万人に共通の神の意思」を基準として善悪を判断するため一般的に絶対的な基準を持っています。

一方、無信仰者の場合は、神仏などの特定の基準を持たないため、主観的に善悪を判断をする傾向にあります。従って、人によって善悪の基準も異なる相対的な善悪観となります。

また信仰者は、神仏の意思、神仏の教えに基づいて判断し行動するため、 状況に左右されず、ブレない人生を歩む傾向があります。

それに対して、無信仰者は神仏という基準がないので、その基準は人によって違いがあり、お金が神仏に変わったりすると損得勘定で判断し行動することがあります。

評論家の山本七平氏は「日本に潜在的に染み込んでいる宗教」を「日本教」と呼びました。日本教は、神仏を基準とするのではなく人間同士の関係、「空気」や「世間」を判断基準にするので、空気を読んだ行動が求められる傾向にあります。

宗教と無宗教のまとめ

この会では宗教マイノリティを「特定の宗教に自覚的に信仰をもち、その宗教に固有の規範や信条をもって生活を送っている人々」と定義しています。

この定義は日本における「宗教を持つ人々」とほぼ同じだと思います。

一方、日本における「無宗教」とは「宗教マイノリティ以外の人々」、つまり「特定の宗教への信仰や帰属意識を持たない人々」といえます。

無宗教の中には、「自然宗教を信仰している人々」や「無自覚の宗教性」に基づいて生活している人々、「日本教」の人々とも重なります。

これに加えて、無神論とは「神様の存在を否定する思想」のことを言います。

まとめると、

  • 宗教者:特定の宗教を自覚的に信じて生活している人々

  • 無宗教者:特定の宗教を信仰していない、または宗教性があっても自覚的な信仰は持っていない人々(神様の存在を否定しない人々も含む)

  • 無神論者:神様の存在を否定する思想を持つ人々(無宗教という人たちの中に無神論者がいる場合もある)

従って、日本では明確な宗教観、信仰観を持って生活している人々以外は基本的に無宗教者といえるでしょう。

宗教的人間と無宗教的人間との対話

次に「宗教的人間と無宗教的人間との対話」(西南学院大学人間科学論集第13巻第2号1―16頁2018年2月)という論文があったので、その要旨をまとめてみました。

  • 宗教的人間(a religious person):特定の宗教を信じ、その共同体に属し、宗教による自己存在の認識がなされている人間

  • 無宗教的人間(a non−religious person):特定の宗教を信じることなく、その共同体に属せず、宗教による自己存在の認識がなされていない人間

宗教的な人と無宗教的な人の間に起こる葛藤、それが日本では「宗教問題」となったりします。

例えば、宗教的人間は自らの宗教の教義を伝えること、伝道を通してメンバーを拡大していきます。その過程で宗教が嫌いな人や宗教を受け入れたくない人との軋轢が起きることがあります。

宗教的人間は「信じれば分かる」と言い、無宗教的人間はそもそも「信じたいと思わない」となれば、両者の主張は平行線をたどり、お互いに理解しあうことは難しいでしょう。

その両者の壁を超え相互理解を進めるにはどうすれば良いのか、その「重要な役割を果たすのが文化に関わる領域」だということです。

無宗教的人間も「宗教の本質や信仰のことは了解できなくとも、音楽や絵画など芸術を通して宗教に触れ、鑑賞することができる」「宗教における信仰や教義以外の部分、すなわち、人間の営みに関わる文化的側面において、両者の接点は見いだせる」からです。

また、「『間文化的哲学』が、宗教的人間と無宗教的人間との対話の方法にヒントを与えてくれる」と言います。間文化的哲学とは、「異文化からの影響を統合することを重視する哲学へのアプローチ」です。

そのアプローチの中に、多元的対話(Polylog)があります。「ポリローグは、互いに対話の相手としては同等であることを認めつつ、自らの立場に固執せず、より多くの視点をとりながら対話する特徴をもつもの」です。

一方的な話(monolog)や二者間の対話(dialogue)と違い、このアプローチで重要となるのが、「対話」(communication)です。

対話は、「相手の人格を認め、繋がり合いたいという意志によって可能」となります。

また、「対話には忍耐が必要であり、相手の成長を信頼し、相手のどんな立場でも認める寛容さや愛が不可欠」です。対話によって成長し、人格が作られていきます。

従って、対話には倫理学的観点、教育学的観点も含まれています。

さらにこうした内容は聖句にもあるように、宗教にも共通するものだと思います。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。

『新約聖書』コリント人への手紙I 13:4〜8

相互に理解し合いたいという意思をお互いに持ち、対話をすることを様々な領域で広げていくことができれば、相互理解が進み、共生共栄社会につながっていくと思います。

今回の発表は以上になります。ありがとうございました。

※次回は上記の発表後の意見交換内容をアップします。

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