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社会貢献と宗教|第10回宗教マイノリティ理解増進勉強会【下】

7月27日の「第10回宗教マイノリティ理解増進勉強会」では、「宗教の地域社会への影響に対する社会学的研究」発表がありました。

以下に、その後行った参加者間の意見交換をまとめました。

意見交換

社会貢献活動と宗教

発表者、A男さん(家庭連合系の大学生グループのリーダー、青年)
お寺が同じ場所に長くとどまることで、地域に自然と溶け込んで、安心できる場所として人が集まる場所になっていくんですけど、同じ場所に長くとどまるという要素さえあればそうなるかと言うと、そういうわけではないと感じました。

その地域に対してその宗教がどんな姿勢を持っているかが、そのまま地域の見え方とか、地域からの受け取られ方に反映されていくと考えるべきだと感じました。

ある宗教が地域や社会からの理解や信頼を得たいと思うならば、宗教側が地域や社会に対してどのようにありたいか、というところを明確に持ちながら、そこに向かって努力していく姿勢が必要だなとまとめながら考えさせられました。

B男くん(家庭連合、大学生)
公益性という点で、宗教は基本的に今の人たちが見落としている価値観を補って最善の生き方をしようね、みたいな生き方だと思うので、それを伝えるのが公益だと思っているんですけど。

そのお寺では既存の価値観の中で世の中が必要とするものを与える、それを公益性と呼んでいるので、新しいものを伝えていくというのは、その土台の上でしか受け入れてもらえないのかなと、聞きながら思いました。

まず我々が大切にしている価値観を伝えること以上に、世の中に必要とされることをして、そこで認められたうえでの話になるのかなと思った時に、社会貢献活動と布教を別々に切り離すことになるのかなと。難しいなって、モヤモヤしてしまいました。

C子さん(新宗教A、信徒)
私たちは「真実」を求めてるんだと思いますけど、「現実」は何かと考えた時に、「合意」ということだと思います。たくさんの人がそうだと思っていることが、その人たちの中では「現実」なので。

たくさんの人と交流したり、世の中を良くしていこうと思うと、世の中の人たちが「現実」だと考えているものを少なくとも理解しなくてはいけないということですよね。

その中で、その人たちがまだ信じられない精神性のところを、バンと突きつけたとしても、まだそれが彼らの現実ではないので、見えなかったり、信じられないので、一旦それが分かるところに降りていくみたいな形で、現実の中で彼らが「良いな」と、「ありがとう」と言ってくれることが公益活動なのかなと思うんです。

とも
貢献していく中で、私たちの良さ、宗教の良さも伝わっていけば良いなと、そうですね。

C子さん
段階というか階段みたいなのがあって、そういうところで「良いな」と分かっていく、その精神性が理解できる階段があるんだみたいな。

D男くん(家庭連合、大学生)
積極的なイメージに変えていく必要があるかなと。ある種の信念を持って一つひとつの企業活動についても、一つひとつの活動に対してもビジョンを持って、それを主導しているのが宗教としての信念だというモデルが現れていく必要があるかなと思います。宗教を持っているにして持っていないにしても、ある社長さんを見てその信念ってすごいなって世界はあると思うんです。そういうイメージに変わっていくと宗教にもプラスになっていくかなと。

あとは、宗教学の先生にインタビューに行った時に、宗教学という分野自体は、宗教を信じるものとして、それを価値視するとかではなくて、宗教自体を客観視して、その観点から宗教とはどういうものかを社会学的にとか、歴史的にとか、そういうふうに貢献していく分野であるんですけど、どちらかというと、解決が与えられたというよりは、なんで宗教じゃないといけないのかって、そこのへんが逆に疑問になってしまうことがあります。

「困っていたら救済」に関しても国だとか行政だとか、社会のボランティア活動がある中で、特異的に宗教が持っている価値があるのかどうか、先生自体も分からないというのはあるみたいでした。

目に見える活動だけ見てたらその価値は分かりづらいなと思って、自分も整理しきれていないんですけど、宗教学とか社会学という観点だと目に見えるものしか扱えないというか、客観的なものしか扱えないので、個人としての経験とかはあまり分析されえない。そういう感じなので、伝えていくのは結構難しいなと思ったりしました。

B男くん
なにかしていくのに、宗教のオリジナリティがなかったら、劣化版ボランティアみたいな。

D男くん
今、宗教としてやっているのもだいたいボランティアみたいになっていると思うんです。それも必要なんだけど、本当に世の中に適合していくとなると世の中にあたりさわりのない形でやるしかないというか。本当にこちらの信念を伝えていくとなると、ある程度の反発は覚悟してしていく、どっちしかないということは言われてました。あらためて宗教が持つ価値とか考えないといけないなと思いました。

とも
対外的なボランティア活動は、宗教活動の一部ではあるけど、宗教の本質とは違うので。宗教が受け入れやすい環境づくりという意味はあるんだろうけど、宗教そのものではないというか。

マイノリティはマジョリティの見本に

A男さん
お寺として地域の人にどう見てもらえるか、目指すお寺の姿、信徒さんから見てこういうお寺というのではなく、外の人から見てどういうお寺になりたいのか、というビジョンがあって、そこに向かって努力していくことが学べることかなと思いました。

集まっている人は何かしらの価値を感じて集まっているけど、外の人から見た時にどんな教会と思われたいのか、どんなお寺と思われたいのか、そういう発想というのは宗教の世界観だけの発想では見えてこないかなと、そういうところをイメージしながら、しているというか。

私たちの宗教的信念の延長上から外の人からどういう教会と見られたいのか、思ってもらいたいのか、そこまで描かれたら良いかなと思いました。

E男さん(新宗教B、元役員)
この会合の「マイノリティ」という言葉に相当する言葉を教義の中で探してみたんです。

それを何というかというと、手本「ひながた」と言うんですよ。手本になる、見本になる。そういう出来上がった人格者みたいなことを表現する。「ひながた」はものを生産する時に必ず作られる型なんですけど、人間もその型を使って作られていくんですが、尊敬されるような人間を作っていく型を表している。

ですからマイノリティほど天の法則、この世の真実を貫いている人物はいないという考えになる。マイノリティこそマジョリティを変革するべきだと。どうやってやるかというと、私の言動を見なさいと。見本「ひながた」にならないといけないと。

私がどうしてこの会合に来てるかというと、家庭連合の人たちを端から見たりしていると、テレビの報道とは全然違うんですね。人格的に。

私はこれはおかしいと。テレビの報道と皆さんの言動が違う、というところに私は非常に疑問を感じてね、ついこの前、福田ますみさん(ノンフィクションライター)の講演に行ったり、IRFサミット、あの場では、家庭連合に対する宗教弾圧が常識的に語られている。

だから、皆に皆さんの言動を見てもらえばいいんです。知識も教養もあるし。

C子さん
それぞれの宗教に素晴らしい教えがあるんですけど、ただ信じているだけだとそれが現れないで個人的なものになってしまう。それはそれでいいのかもしれないけど、それを使わないと意味がなくて、それを使う一つが社会貢献。そういうことを示せればいいかなと。

それから「宗教」という言葉を再定義するのがいいかなと思っています。私も法律家(弁護士)なので、定義が違うものを意図していたら議論にならないので。宗教の定義が日本では大混乱していますよね。

日本で宗教やっているというと「え〜、宗教!」みたいな。今使っている宗教がカルトみたいな感じになって、そこから正していかないといけないなと。

個人的に宗教という言葉を調べたことがあったんですけど、それは「もととなる教え」だったりとか、「人が人として生きていくうえで大切な教え」だったりとか、そういう事だと思うんです。それがいろんな異宗教間の中での最大公約数というか共通点みたいなところで。そこを手掛かりにして、そういうことを実践しようとしている人たちなんですよ。

とも
宗教という言葉を定義して正しく伝えていくことが大切ですよね。

C子さん
元々 "religion"  という言葉が日本に入ってきた時には、訳語がなかったと聞いたことがあって。それは、日本では元々神道とか仏教があって、宗教的な考えは当たり前すぎて、世の中に浸透しすぎてて、生活の一部になってるから、海外で言う宗教と、ぴったりな言葉がなかったと聞いたことがあります。それぐらい人間として生きていくために当たり前の考え方なんだなという感じで。そこから変なカルト団体みたいなところに変遷していったのは嘆かわしいというか、危険ですよね。

とも
「宗の教え」なので「根本的な教え」とか、そういう意味ですよね、言葉自体は。

だから最初に訳した時はいい訳だったと思うんだけど、それがだんだんと意味を変えられていったんだと思います。「宗の教え」という言葉は、良い言葉だと思うので、それを本来のものに戻さないと。

C子さん
そうですね。それをすごくしたいなと思っています。

とも
E男さんの話を聞いてマイノリティの概念も変えないといけないなと。お手本を作っていくという、未来を創っていくというイメージ。未来のお手本を創っていくというイメージに。

宗教的信念が世論を作っていく

A男さん
いろんな信仰があって、同じ信仰を持っている人たちでも、どういう土台の基にその信仰を持っているかは人によって違うのかなと。

同じ信仰を持っているはずなんだけど、人によってはものすごく謙虚にいろんな人から学ぶ人になっていく人もいるし、信仰持っていったら、なんかすごく独然的になったりとか。

それって、同じ信仰、例えば同じ教えを学んでるはずなのに、人によって、そこで形作られる人格とか、信念とか生き方とかっていうのが、全然変わってしまうのはありますよね。

個人的には、信仰を持てば持つほど謙虚になって、たくさんの人のことを理解して、そこから学べるような幅の広い人になっていく方が良いなと。

本当の宗教は今言ったような、信仰を持てば持つほど、幅の広い人になっていくみたいな、そっちだと思うし、そっちであってほしいですね。

同じ信仰だけど、どういう土台で向き合っているかで宗教の意義が違うものなんだろうなと。ここに集うのは学び合おうというのなので、とてもすてきだなと思います。

とも
宗教者は基本的に共通点は多いので、一致できるところはたくさんあるはずなんですね。細かい教理の教えに入るといろいろ違うんだけど。

信仰は違っても宗教者の人といろいろ接すると分かると思うんだけども、教理の話とか、宗教的な話をするわけじゃなくても、話をしやすいというか、本質的な話ができるんですよね。

世俗的な話とか表面的な付き合いには満足できないというか、枯渇感を覚えたりすることがある。それが宗教心を持っている者同士だと話しやすいというか。そこに一つの宗教一致というのが出てくるのかなと思ったりします。

それが世俗と違うことの良さというか、そういう事が世俗の人にも伝わっていくようになれば、宗教の価値が見直されていくと思っていて。だから、そういう流れをここで作っていきたいなと思っています。

世論を変えていく力も、実は宗教者こそが一番持ってるはずなんですよ。実際、宗教者こそが、世の中変えてきたので。公民権運動のキング牧師にしても、ノーベル平和賞のマンデラさんにしても、マザーテレサさん、マララさんにしても、みんな宗教者だし。宗教的なメッセージ、宗教的な信念こそが、世の中を変えていくし世論を作っていくものなんですよね。

だから、私たちが世俗的な手法に走ったり、世俗的な感覚でやってしまうと、むしろ発信力が弱まってしまうことになる。宗教者としての正攻法でやることこそが世論を変えていく力にもなると思っているので、そういう感じのこともこれからもしていきたいと思っています。そうしていけば確実に世論は変わっていくと思っています。

宗教的な内容が世の中に伝わっていって、世の中が共感をして、「宗教っていいものだね」「宗教ってカッコいいものなんだね」と。どうしたらそれが伝わるのかっていうのは宗教者側の努力ですよね。それをしていかないとと思っているので。そんな視点を持ちながら、今後も続けていきたいと思っています。よろしくお願いします。

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