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社会における宗教の意義|第10回宗教マイノリティ理解増進勉強会【上】

「第10回宗教マイノリティ理解増進勉強会」を7月27日に行いました。家庭連合からは大学生、青年、壮年、婦人ら16名、それに新宗教の元役員の方、別の新宗教の信徒の方、合計18名が参加しました。

はじめに大学生グループ(W-CARP JAPAN )のメンバーから発表があり、その後、意見交換を行いました。


発表内容の目的

発表者、A男さん(家庭連合系の大学生グループのリーダー、青年)
日本では、宗教が社会の中でどんな意味をもたらしているのか、どういう価値をもたらしているのかに関して、あまりイメージがないし、ポジティブな印象が持たれていない。そこを克服していことが、具体的に「信教の自由」を実現していく時には必要だと思った。

法律的に「信教の自由」が守られていて、制度としてあり、その中で守られている、と言えるかもしれないが、それを公的なものにしていくには国民が「なぜ信教の自由が大切なのか」「宗教が、なぜ人間社会でそんなに守られるほどの価値を有しているのか」を理解する必要がある。

宗教者からすると「宗教が必要であることは自明の道理」であるが、その感覚が、なかなか社会の人に理解してもらうのは難しい。

そこで宗教者の視点から見た宗教の必要性という角度より、社会的な立場から見て宗教がどういう意味をもたらしているのかを研究していけたらということで、学生たちと簡単ではあるが、まとめてみた。

以下が大学生グループからの発表内容


宗教の地域社会への影響に対する社会学的研究(仮)

1. 背景と目的

2022年7月8日に起きた安倍元首相の暗殺事件以降、家庭連合は一部の根強い反対派からの激しいバッシングを受け、それに迎合するような形で自民党による関係断絶宣言と、それに引き続く日本政府による解散命令請求を受けるようになった。

しかしそのプロセスにおいては、基本的人権の要諦である「信教の自由」を踏まえた判断や、民主主義に基づく情報開示や多様な意見を踏まえた決定手続きが行われたとは言い難い点が多い。

このことは今後、日本が立憲民主主義国家としての内実を備えるにあたって重大な欠陥を生み出す可能性をはらんでいる。本来の民主主義的なプロセスを経ずになされる行政的な処分事例が認められた場合、今後似たような状況が起きたときに、同様に処分が下されても問題はないということを裏付ける既成事実を生んでしまうからである。

行政府の問題がここにあることはもちろんであるが、そのような判断を是とし得る世論や国民感情があることを見落としてはならない。日本人の多くが、宗教というものをそもそも「怪しい」、「何をしているかわからなくて怖い」、「洗脳されそう」、「弱者の集い」などのネガティブなイメージでとらえている現状がある。

事件が起こる以前にこうしたイメージがそもそもあり、ゆえに事件がトリガーとなってその抱いていたイメージが表出したため、ネガティブなものとして見てきた社会的な「異物」を排除しようとする動きが、ある種スムーズな形で進んでくることができたとみることができる。

このような角度から検討した場合、今回の事件によって家庭連合が解散命令請求を受けるようになったことは、日本の国民感情が宗教に対して不寛容かつネガティブなものであったことを示す、いわば「氷山の一角」に過ぎないのである。

前段の議論を踏まえれば、普遍的な価値、すなわち社会正義の最上位概念として考慮されるべき民主主義が、「信教の自由」という観点でも、制度だけでなく国民相互の社会的・心理的関係性において実現されるためには、憲法や法令のみによる保障では不足であり、宗教の人間社会における意義や影響が、肯定的に理解できるものとして多くの国民に普遍的に浸透していかなければならない。

本研究は以上を踏まえ、神学的・宗教学的な意義ではなく社会学的な角度から、宗教の存在が日本においてどのような影響をもたらしているかを考察することを通じて、日本における宗教の存在意義を再定義することを試みるものである。

2. 手法と結果

本研究を進めるにあたっては、伝統宗教、新興宗教を問わず、不作為に選んだ複数の宗教団体の信徒に直接接し、インタビューを行った。以下がその結果である。(今回はその一例を紹介する)

① 浄土宗住職(東京都内)

歴史:戦前に住職らが、都内の檀信徒の会館で浄土宗としての社会貢献活動始めた。檀家さんも賛同していたと考えられる。会館は戦争の被害を受けたが、建物は残っていたものをその後売り払った。当時の住職らは高い理念の基、活動をしていた。それは浄土宗の教えから人を助けようというものであった。

現在:お寺の業務が忙しく、以前のような貢献活動は行っていない。夏に京都の総本山や本願寺へ子供を連れていくツアーやキャンプは行っている。現状、お寺が積極的に地域貢献活動をするのは難しいという認識。現在の地域貢献活動としては、毎週の将棋教室や毎朝のラジオ体操会、朝顔市や写経会などをイベントなど。

住職としての考え:宗教法人の特質上、境内は非課税となっており、会館は社会的公益性が必要と考えている。そのため、寺院を檀信徒のみのための場とするのではなく、宗派に囚われない信仰の場、憩いの場、交流、楽しみ、学びの場を提供できるようにしている。

境内についても、犬の散歩や保育園児の遊び場として、地域の方のお花見場としてなど、自由に散策できるよう配慮している。地域活動を通じて、開かれた寺院を目指している。一人でも多くの方が参拝し、仏教に触れていただいたり、寺院を身近な存在として感じていただきたい。

そのため、公共施設などに比べイベント開催の許認可手続きは比較的簡単に定めてもいる。永くとどまっていられることがお寺として地域に貢献できる強みだと考えている。永く存在することを通じて、地域に自然と溶け込み、根付いていく。

3. 考察

住職へのインタビューから見えてくる、一定数の宗教に共通する特質として二点を挙げることができる。第一は、「公益性への自覚」である。公益的なものであろうとするからこそ、檀信徒以外の人々にも開かれた寺院として気軽に訪ねてこられる場所であるための環境配慮をするとともに、将棋教室による地域児童への貢献や、ラジオ体操会の開催による憩いの場づくりなどを積極的に行っている。

法令の面から言えば宗教法人の課税義務が免除になっている背景に宗教法人の公益性の概念があり、それを自覚して実践しているということができる。しかし、「公益性への自覚」は単純に法令上の宗教法人の趣旨からのみ生まれたものではない。戦前の歴史からもわかるように、そもそも浄土宗の教えの実践が社会貢献活動の発端であり、「公益性への自覚」は法令によるよりもむしろ教えによるところが大きいと考えられる。

第二に、「同じ場所に永くとどまる」という点である。会館は600年にわたり地域に存在し続けている。開かれた寺院でありながら永くとどまるということを通じて、地域に自然に溶け込み、人々が安心できる場所として自ずと人が集まる場所となった。実際、境内を訪れる人の中には、参拝をするわけでもなく、単純な散歩や保育園児の遊び場、休憩所などとして利用するという場合もかなり多い。

しかし、「同じ場所に永くとどまる」という要素があれば、自ずと地域に開かれた場所として溶け込むというわけではない。「開かれた場所であろうとする努力」が、結果的に地域から見ても開かれた、安心できる場所としての認識を浸透させる結果をもたらしたと考えられる。そのことを踏まえれば、「同じ場所に永くとどまる」宗教は、地域に対してどのような姿勢を向けて存在し続けるかによって、結果的に地域から見てどのような宗教であるかという理解やイメージを形成していくとみることができる。

以上の議論を踏まえれば、宗教が地域社会に与える影響は、「宗教だから」と一義的、また自然発生的に生じるものではなく、その宗教と信徒がどのような自覚と地域への姿勢をもって行動するかによって変化するものである。

教えによって公益性を重んじる宗教は少なくないが、一方でそれが宗教に普遍のものであるかというと、そのように断定することはできない。また、地域や信徒以外の人々への姿勢も、宗教によって大きな違いがある。

しかし、「同じ場所に永くとどまる」という点を踏まえれば、どのようなものかは別として、宗教者自身の自覚と姿勢が、その如くにその宗教の理解やイメージとして地域に反映されるということができるのではなかろうか。

ある宗教がもし、地域や社会からの理解や信頼を得たいと望むのであれば、まずその信徒の自覚や地域に向けられた姿勢、施設の在り方自体が、理解しやすい開かれたものであり、信頼に値する態度をしめすことができているかどうかを精査しなければならない。

※ 次回は発表後の意見交換内容をアップします

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