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信教の自由の可能性|第14回宗教マイノリティ理解増進勉強会【上】
「信教の自由」をテーマに、2024年11月23日に「第14回宗教マイノリティ理解増進勉強会」を行いました。主の羊クリスチャン教会の中川晴久牧師、新宗教団体の元役員、家庭連合の信徒ら20人が参加しました。
以下は、前回と同様の資料による発表後の意見交換です。
意見交換
信教の自由と法律
A男くん(家庭連合、大学生)
大学の宗教学の先生に、いろいろとコンタクトを取って、お話を伺ったり、授業に出させてもらったりしていて、家庭連合の二世としての立場で、生の声という感じで、話をさせていただく機会も与えられたりしています。
そこで信教の自由も扱ったりしていて、今日の資料を通してもそうなんですけど、法律的な観点で信教の自由を語ることが多いかな、という感じはあります。
法律的に信教の自由を守ること自体が不可能じゃないかという話はありつつ、逆に法律で守られないからこそ信教の自由らしくある、という話が授業の中でも論点になっています。
とも(主催者)
なるほど、それはすごく重要な視点だね。そもそも宗教は世俗と離れたものなので、世俗と離れたものを法律という世俗なもので扱うとなれば、宗教そのものがまた別ものになりかねない、というのがあるね。
A男くん
「宗教の自由の不可能性」という用語があるみたいです。
アメリカでも「信教の自由」を明文化するとか、定義するということ自体、不可能という結論にはなっていて、そもそも放棄してるところはあるんです。
そういう中で日本で議論をしながら、信教の自由を勝ち取っていくというのは結構難しいんじゃないかなっていうのは、ちょっとありますね。
信教の自由と公共の福祉
とも
最近、UPF-Japanが発行したチラシに「『公共の福祉』で『信教の自由』を制限するのは人権規約違反」というのがあったけど、今の話からすればそうですよね。
そもそも宗教は世俗とは違う世界なので、そこをどう法的にするのかは、かなり難しい話ですね。
A男くん
宗教の特質でもあると思うんです。宗教が何なのかという定義は曖昧なところがあって。特定の「なんとか教」に限らず、「個人としての信条も宗教に入るのか」とか。そうなると定義できない。だからこそ法律として議論すること自体ができないというのがあるみたいです。
C男くん(家庭連合、青年)
今の信教の自由が、西洋では個人の人権とか、個を確立させていくための過程の中で出てきていると思うんです。日本はそういう個を確立させようとしてきたというよりは、関係性の中で生きているというか、ご縁みたいな。そういう繋がりの中で物事とか人間を考えようとする。
だから、「公共の福祉」という発想が大事になるとは思うんですよね。今は西洋諸国の受け売りで法整備とか形が作られていると思うんですけど、日本の風土にあった形での「信教」の概念というか、そういうのを考えていく必要があるかな。
とも
それで、今日の資料には、「和をもって尊しとなす」を入れてみたんです。その方が、日本では受け入れられやすいのかなと思って。
「和をもって尊しとなす」というのは、和に入らない人を排除するのではなく互いに尊重し合う。それが本来の聖徳太子が制定した時の精神だったそうです。
D男さん(新宗教団体元役員)
「自由」という言葉は、束縛とか強制があったから「自由」というのであって、日本では国家神道で強制されていたイメージがあったので、戦後はその呪縛を解かれたという開放的な意味から「自由」という言葉が生まれたんですよね。でも自由となると、さっき学生さんが言われたように、とても法律論的になって、ギクシャクしてくると思うんです。
私はね、「信教の自由」じゃなくて、「信教のすすめ」「信教の当然」「信教は当たり前」だと思うんです、人間としてね。
うちの宗教では、具体的な事例で語られるんですけど、何が大事かと言うと、皆さんの周りにもいると思うんです。後ろ指を指されるような「嫌われ者」が。その人がどこで教えを習ったのか激変したと。感心されて尊敬されるような人になったと。
それが「信教」なんです。どういうところに現れるかというと、人間としての道理筋道が身についたかどうか。
例えば、お茶を出す時に、「飲みますか、飲みませんか」と言う人がいます。でもそう言われたら、「いや、いいです」と言いますよね。相手のことを思っていないと、こういう言い方になるんです。
初めから「遠いところお疲れ様でした。温かいのをどうぞ」と言ってお茶を出す。これが道理だということです。
だから信仰した方がいいわけですよ、絶対に。
そうして目に見えない世界に皆さんは出会ったわけですよね。これは感動じゃないですか。感動はやっぱり伝えないとダメですよ、という感想を僕は持ってます。
宗教者間対話
E子さん(家庭連合、婦人)
私は生長の家から来たんですけど、他に宗教やってた方も多いと思いますけど、神様は変わらないですよね。宗教が変わっても変わらない。そこがずっと目指すものと思っています。
最近は宗教対話じゃなくて宗教者間対話なんだな、というのはすごく思っています。
今、キリスト教のある牧師のところに行かせて頂いているんですけど、すごく勉強になるんです。原点に帰っているというか、それが嬉しいんですよね。
皆さん本当にイエス様を愛してらっしゃっていて、みんな祈り合って。そうならないといけないなと思いました。
中川晴久さん(キリスト教牧師)
僕自身もね、これは神の御心だと思ってやることがいっぱいあったんだけど、振り返ってみると、そういうの全然ダメだったんですよ。
家庭連合さんに悪口言って攻撃してたのも、僕は神の御心だと思ってやってたんだけど。そういうのも全然ダメ。
じゃあ今、何が僕の中で自分自身を活かしてるかというと、そういったところで学んだものの副産物なんですよね。
これが神の御心だと言ったことはダメで、その方向に一生懸命やっていた時に、「えっ、そうなの」みたいな、「こうだったの」と気づかされたこととか、それ、副産物なんです。
それを真珠に喩えて、壁にぶつかって痛いとか。でも傷口からできた宝石が真珠じゃないですか。だから、その真珠を拾っていくことが、僕は大事だなと思っています。
その拾う作業が、宗教間対話じゃないかと思っています。
F男くん(家庭連合、大学生)
自分も信仰しながら、伝道というか、教えを伝えていくみたいなところに向き合いながら、神様に対しての信仰を立てて、向かっていく世界とかはあったりはするんですけど。
結果的に人と向き合いながら、人の痛みがわかるようになったりとか、どんな人にも心を開ける、そういう関係性築くには、どういう自分になったらいいのかなとか、そういうところで気づかされることが多くて。
一緒にカラオケに行ったり、ゲームやったりとか、そうやっていく中で、結果として、その人の何かが変わる、というのもありますけど、そういう世界、自分の中では大きいなと思っています。
それが僕の中では、信仰の喜びじゃないですけど、なんか神様から愛されてるなと感じています。
※ 次回は「家庭連合がどう見えるか他の宗教の方に聞いてみた」です。
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