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信教の自由の実現に何が必要か|第13回宗教マイノリティ理解増進勉強会【上】
10月12日に行った「第13回宗教マイノリティ理解増進勉強会」は「信教の自由」をテーマに行いました。主の羊クリスチャン教会の中川晴久牧師、新宗教団体の元役員、家庭連合の信徒ら合計21人が参加しました。
以下、勉強会の前半「信教の自由」に関する発表内容をまとめました。
信教の自由
とも(主催者)
全国的に家庭連合や信徒が「 信教の自由」をテーマに集会やシンポジウムなどを行っていますが、別の視点、見方も重要だと思って、この会では今まであえて「信教の自由」はテーマにしてきませんでした。
でも会を始めて一年経ち、いろいろな意見も出てきたので、今回「信教の自由」をテーマにさせていただきました。
ネットなどで調べて「信教の自由」についてまとめてみましたので、その内容を簡単に説明します。
信教の自由の概要
信教の自由の概要について「行書塾」のウエブサイトを参考にまとめてみました。
日本では、憲法20条で信教の自由が保障されています。
第20条〔信教の自由〕
1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
明治憲法にも信教の自由はありましたが、実際には神道、神社が日本の文化として国教のように扱われ、キリスト教や新宗教などが弾圧されたことがありました。そういう過去を踏まえ、日本国憲法では個人の信教の自由を厚く保護しています。
そして信教の自由には、主に3つあるとされています。
信仰の自由(特定の宗教を信じる自由、信仰を変える自由)
宗教的行為の自由(礼拝、祈祷等を行う自由、布教の自由)
宗教的結社の自由(宗教団体を設立する自由、宗教団体に加入する自由)
上記3つをしない自由も保障されています。
信教の自由の限界
信教の自由が、他人の人権と衝突することもあるため、「宗教的行為の自由」と「宗教的結社の自由」の二つは、「公共の福祉」による制限を受ける場合があります。しかし、信教の自由は内心に関わることなので、その規制に対しては慎重でなければならない、とされています。
以下は信教の自由に関する主な判例です。
信教の自由に関する重要判例
(最判平8.3.8.:エホバの証人剣道受講拒否事件)
高校生が「エホバの証人」を信仰している宗教上の理由から、体育の剣道実技の授業の参加を拒否し、レポート提出等の代替措置を求めた。
校長らはこれを認めず、体育の成績が認定されず、2年連続で留年(原級留置処分)となり、結果として、学則に従って退学処分となった。
このことについて、学校教育における信教の自由の保障が争われた。
最高裁は、 レポート提出等、他の手段が可能なのに、他の手段について何も検討することなく、留年・退学処分としたことは、裁量権の範囲を超え、違法だとした。
(最決平8.1.30:オウム真理教解散命令事件)
オウム真理教は、大量殺人を目的とした地下鉄サリン事件を起こした。この事件を受けて、オウム真理教に対する解散命令が出され、この解散命令が、宗教的結社の自由に対する制限ではないかと争われた。
最高裁は、合憲だけれども、オウム真理教の解散により、宗教上の行為に支障が生じることもあるから、制限をかける場合は、慎重に吟味する必要性を主張した。
信教の自由の制限は慎重に
家庭連合の解散命令については「違法性」がどうなのか、が焦点になっているような雰囲気がありますが、オウム真理教の解散命令の判決を見ると、それよりも解散によって「宗教上の行為にどのような支障が生じる」か、が重要ではないかとも思われます。
信教の自由と宗教法人
次に「『信教の自由』と宗教法人」という論文があったので、それを参考に宗教法人と信教の自由、解散命令について整理してみました。
宗教法人法
第1条 この法律は、宗教団体が、礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し、その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする。
2. 憲法で保障された信教の自由は、すべての国政において尊重されなければならない。従つて、この法律のいかなる規定も、個人、集団又は団体が、その保障された自由に基いて、教義をひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない。
第2条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。
一 礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体
二 前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体
宗教法人とは
「法律上の能力が与えられた宗教団体」(1条1項)
「宗教法人法により法人となった宗教団体」(4条2項)
「宗教法人の目的」(1条1項)は、①「財産の所有・維持運用」と②「業務事業の運営」とに資すること
「宗教活動」を行う「宗教団体」の「財産管理」「世俗の事務」の部分だけが「宗教法人」になったと解するのが適切。「宗教団体の財務部」が「宗教法人」
「宗教団体」が法人化して「宗教法人」に転化してしまうのではなく、「宗教団体」に法人格が付与されて「宗教法人」が付加されると考えるのが相当
宗教団体とは(宗教法人法)
「主たる目的」が、①宗教教義の広布②儀式行事の執行③信者の教化育成
宗教法人の解散と宗教団体
「宗教団体」は、法律の規制を受けないので、「宗教法人」が解散しても、「宗教団体」も同時に解散するわけではない
ただし、「財産」はすべて「宗教法人」の所有となっているので、「宗教団体」は、「無財産」の団体として存続することになる
宗教法人解散と信教の自由の侵害
宗教法人の解散と信教の自由について考えると、解散になれば「無財産」になる。例えば今まで信徒が拠り所にしていた集会場所、礼拝所等が失われる。このことが「宗教上の行為にどれほど深刻な支障が生じることになるのか」「信仰の自由に対してどれほどの制限がかかることになるのか」、この辺りがやはり争点としてポイントになるのかなと思いました。
これについて、最近、X(旧twitter)で「保守派弁護士(ハンドルネーム)」さんが、以下のような発信をしていました。
ここ10数年旧統一による「被害」は、法整備等により激減した。 そんな状況で、真面目に信仰している方々の礼拝場所を奪っても良いの?それほどまでに解散の必要ってあるの?
結局、旧統一教会問題は、高額献金で苦しい思いをした人は確かにいる。ただ、その財産的損害は回復できる。
— 保守派弁護士 (@abejinja) October 9, 2024
そして、ここ10数年旧統一による「被害」は、法整備等により激減した。
そんな状況で、真面目に信仰している方々の礼拝場所を奪っても良いの?それほどまでに解散の必要ってあるの?ということ
信教の自由の実現に向けて
次に信教の自由が建国精神でもある米国の歴史から信教の自由の実現に向けた取り組みをみていこうと思います。
米国の憲法修正第1条に次のように定められています。
連邦議会は、国教を樹立したり、宗教上の自由な行為を禁止したりする法律、または、言論や出版の自由を制約したり、または、国民が平穏に集会する権利や、苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を制約する法律を制定してはならない。
憲法に「信教の自由」が定められているとはいえ、その概念がすぐに実現するわけではありません。憲法制定後も少数派宗教への偏見や差別はありました。
米国ではその現実を乗り越えて、偏見や差別の克服と「信教の自由」実現に向けた取り組みが行われてきました。それについて米国に関する情報サイト「アメリカ早分かり」(About the USA)にある内容を参考に考えてみました。
少数派への偏見や差別の克服
米国では、建国当初からプロテスタントがマジョリティ宗教だったこともあり、マイノリティである他の宗教に対する偏見や差別はありました。
19世紀末から20世紀初頭にかけては南欧や東欧のカトリック国出身者が多く移住し、多数派のプロテスタントの間には、反カトリック感情もあったという事です。
そうした中で、1960年代にジョン・F・ケネディ氏が、民主党の大統領候補に指名されました。その時、ケネディ氏は南部のバプテスト派牧師に働きかけて、彼らの会合に招待してくれるように申し入れ、その席で自分のカトリック教徒としての信念と米国民としての義務について考えを述べました。
以下がその時のケネディ氏の演説の一部です。
「私が、どの宗教を信じているかではない。そんなことは私一人にとってしか重要でない。私が言いたいのは、どのような米国を私が信じているかということである」
「宗教が異なるというだけの理由で、公職に就くことを拒まれる人がいない国だと信じている」
「米国では宗教の自由があまりにも分かち難いものであるため、特定の教会に反対する行動は、すべての教会への攻撃と見なされる」
「このような米国のために、私は南太平洋で戦い、兄は欧州で命を捧げた」
「我々の先祖はこのような米国のために命を捧げた」
「彼らがカトリック教徒だったかどうかは、誰も知らない。なぜならそこでは、宗派を調べるテストはなかったからである」
今、家庭連合に解散命令請求が出されいて、「信教の自由」を守るうえで、このケネディ氏の演説が参考になるんじゃないかと思いました。
ケネディ氏は、自らの先祖も兄弟も家族も米国のために捧げてきた、と伝えました。それを家庭連合に置き換えて考えれば、日本を守るため、日本の発展のために犠牲になってきた、捧げてきた多くの家庭連合の信徒がいたし、先祖もいたことでしょう。
共有できる価値観と貢献
米国では「信教の自由」が殆どの国民に共通する大切な価値観だとしたら、日本では「和をもって尊しとなす」という価値観が、共有できるものとして、理解しやすいかなと思います。
「和をもって尊しとなす」は、和を乱すものを排除するのではなく、「お互いに尊重し合い、話し合いを大切にする」ということだそうです。これは現代の民主主義の価値観と共通するものと言えるでしょう。
■和を大切にしなさい
1つ目は「和を大切にしなさい」という意味です。お互いを尊重し、認め合って協力することの大切さを表しています。怒らず争わず協力や協調することが尊いことだ、という意味です。
■話し合いを大切にしなさい
2つ目は「話し合いを大切にしなさい」という意味です。争いを避けて和を大切にするだけではなく、お互い妥協せずに納得するまで話し合うことの大切さを表しています。
そんな価値観を共有しながら「家庭連合の人たちが、過去にも現在にも日本に貢献してきているし、未来においてもそう」「家庭連合の人も他の人たちも共生共栄できる」ということが伝わるといいのかなと思いました。
それから信教の自由を訴える場合、信教の自由とは、そもそも何なのかということを理解しなければいけないわけです。「家庭連合を守るため」みたいに伝わったら、味方をしようと思う人はなかなかいないでしょう。
なぜ信教の自由が守られれば日本人は幸せになるのか、なぜ世界が平和になるのか、 その辺のメッセージ性が必要だと感じています。
宗教マイノリティというマイノリティが、(無宗教的な)マジョリティに対してどんな貢献ができるのか。マイノリティである宗教者が、世間の見本になる、お手本を示すことができるかが問われているんじゃないかと思います。
私からの発表は以上になります。ありがとうございました。
※次回は意見交換の内容をアップします。
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